朝霞 かびやが下に 鳴くかはづ

 惨敗だった。
 油断があったわけではない。慢心があったわけでもない。
 けれど、負けた。不意を衝いての攻撃と、予想外の事故が重なって、気がつけば修正不可能なレベルにまで事態が悪化していた。
 撤退を余儀なくされて、ヘラクレスがしんがりを務めてくれたお蔭でどうにか窮地を脱せられた。誰も彼もがボロボロで、霊基はズタズタだった。
 それでも辛うじて、致命的なダメージは避けられた。命の危機に瀕しはしたが、命を失ったわけではない。ならばまた立ち上がれるし、戦える。一度の敗退で心が折れるような英霊は、このカルデアには存在しない。
 治療に入る直前の医者に言われた言葉が、頭の中をぐるぐる回っていた。
 冷たいドアに背中を預け、蹲ってどれだけの時間が過ぎただろう。途中何度か、心配した後輩や、技術顧問や、新局長が声をかけてくれたけれど、顔を上げることが出来なかった。
 どんな面をして話をすればいいか、分からない。なんと言葉を返せば良いかが、分からない。
 どこで判断を誤った。
 どの段階で判断を誤った。
 目の前で繰り広げられた惨劇を、血が滲む思いで反芻する。途中までは上手く立ち回れていたはずで、しかしそれさえも傲りではないかと、一度湧いた疑念は拭いきれない。
「オレ、マスター失格だな」
 三角に折り畳んだ膝を抱き、その天辺に額を埋め、幾度繰り返したか分からない溜め息を吐く。喉の奥から絞り出した悔恨の声は、もし形や色を伴っていたなら、今や堆く積み上げられていることだろう。
 傍らに置かれた飲み物は、氷が溶けて、すっかり温くなっていた。銀色の角盆に出来た小さな水溜まりの中で、透明な硝子容器が光を反射し、そこだけキラキラ輝いていた。
 じっと見詰めていると、目が痛くなってくる。
 あんな風に笑う少女さえも、血まみれだった。真っ先に傷を受けて倒れた男を懸命に治癒して、必死に戦う仲間を鼓舞し、援護していた。
 惨めにも敗北を悟り、退却を決めた自分は、彼ら、彼女らの奮戦を蔑ろにしたのではないか。けれどあのまま戦い続けたところで、勝機を見出すのは困難だった。
 逃げは、負けではない。
 繰り返し自分に言い聞かせ、他者からも投げかけられた事がある言葉。慰めであり、自棄への戒めでもある文言を心に刻むけれど、彫り方が雑だった所為か、刻んだ場所がキリキリと痛んだ。
「悔しいな」
 心臓の真上辺りを服の上から押さえつけ、引き結んでいた唇を解き、呟く。
 長く肺の中に貯め込んでいた呼気は熱を帯び、出来たばかりの瘡蓋に引っかかった。
 宵の口に始まった治療は、まだ終わらない。人数が多いし、どのサーヴァントも一様に傷が深かった。ネモ・ナースが総動員され、ナイチンゲールも手伝っているけれど、医務室のドアはなかなか開かなかった。
 時間の感覚は鈍く、空腹感はない。疲労感よりも焦燥感の方が強くて、身体と心の状態が一致していなかった。
「アスクレピオス、頼むよ。みんなを」
 他に縋るものがなくて、立香は空中に手を伸ばした。腰を捻り、無機質な壁に指を触れて、自信満々に室内に消えた男を思い浮かべた。
 心なしか嬉しそうにしていたのは、嘘ではないだろう。あのヘラクレスでさえ、自力で歩くのが難しいくらいの手傷を負っていた。どこかしらマッドサイエンティスト気質がある男だから、治し甲斐があると思っていても不思議ではない。
 ただ腕は確かだから、彼に任せておけば心配は要らない。
 深く案ずることなく、枕を高くして、ベッドで安眠を貪っておけば良かったのだ。後悔を口にして、痛みに耐える仲間の傍で心を痛めつける必要などなかった。
 きっと手当てを受けているサーヴァントたちだって、喜ばない。逆に怒るだろう。それでもここに居続けるのは、立香が自身に課したエゴだった。
 マスターとして決して出来が良いとは言えない己は、サーヴァントと最も近いところに立っている事しか出来ない。なら、最後までその責を全うすべきである、などと。
 自虐的に笑って、壁に擦りつけた指を滑らせた。力を抜いた途端、自重でカクンと肩から先が沈んで、いつ割れたか覚えていない爪が、泥汚れの目立つブーツの踵に当たった。
「ああ」
 弄ればもっと酷くなると知っていながら、気付いてしまった以上、触らずにはいられない。
 鋭く尖った場所に指の腹を擦りつけ、円を描くように動かしていたら、ふと、なにかが動く気配を感じた。
 微弱な空気の流れを鼻先で受け止めて、顔を上げる。
 ドアは静かに開かれた。一歩遅れて、マスクを外すべく、両手を首の後ろに回した男の姿が目に飛び込んできた。
 額で交差する銀の髪の隙間から、じろりと睨むような眼光が立香を照らす。
「もう朝だぞ、マスター」
「え?」
 子供は寝る時間だ、とでも言いたげな口調で告げられて、ぽかんとなった。
 立香がずっと此処にいたことを、彼は把握していたのだろう。驚きもしなければ、呆れもせず、ただ淡々と、事実のみを口にした。
「そっか。……そんな時間なんだ」
 教えられて初めて理解して、立香は間抜けに頷いた。しみじみ呟いて、認知機能が低下しているのを痛感した。
 長時間座り込んでいただけなのに、予想外に疲弊している。これまで自覚していなかったものを教えられて、苦笑せずにいられなかった。
「みんなは?」
 アスクレピオスの顔を見ただけで、安心した。
 掠れた声で問いかければ、彼はへの字に曲げていた口元を緩め、不敵な表情を浮かべた。
「僕を誰だと思っている?」
 鼻で笑われて、返事が出来なかった。得意満面な医神に愛想笑いを返した立香は、突如、部屋の奥から聞こえて来た大きな音にビクッと首を竦ませた。
「ダメですよ、まだ安静にしていないと」
「うるさい。冗談じゃない。こんなところに、一秒たりとも居てたまるか」
「同感だ。身体は動く。それで充分だ」
「イアソン様が行く、と仰有るのなら、どこまでもお伴します」
「お待ちなさい、あなたたち。大人しくベッドに……邪魔立てするつもりですか。そこをお退きなさい」
 一度に発せられた大量の声は、獣が如きバーサーカーの咆吼に、悉く掻き消された。耳を劈く轟音に堪らず顔を顰めて、立香は立て続けに現れた複数の英霊に目を丸くした。
 向こうもアスクレピオス越しに立香の姿を認識して、医務室を出るべく伸ばした足を引っ込めた。
「なんだ、マスター。その腑抜けた顔は」
「腹でも痛いのか? だがこいつに頼るのは止めておけ、酷い目を見る」
「か弱き乙女に対してあの仕打ち、あんまりです」
「そうだぞ、アスクレピオス。だいたいお前、オレにだけ無駄に沁みる薬を使ってなかったか?」
「ほう、意外だ。気付いていたのか」
「貴様、やっぱりそ……――――だはあっ!」
 まずは満身創痍のイアソンが口角を歪めて笑い、続いてアタランテが包帯の隙間からはみ出た耳をピコピコさせた。杖を支えにしたメディア・リリィが神妙な顔をして、旅の友であった船医が感心した風に目を眇めた。
 直後に悲鳴を上げたイアソンが、他の仲間ごと部屋の外に吹っ飛んだのは、ナイチンゲールと一戦交えたヘラクレスに押し出された為だ。
 彼も本来の力が発揮出来れば、婦長に力負けすることはなかっただろう。
「重い、重い。潰れる」
「なかなか面白い光景だ。しばらくこのまま置いておこう」
 仰向けに廊下に倒れた豪傑の下敷きになったのは、イアソンだけ。すんでの所で被害を免れたアタランテは、頬に貼られた湿布を剥がしつつ、依然座り込んだままの立香を振り返った。
 男勝りな態度を軟化させて、子供達を見る時の優しい目をして、白い歯をちらりと覗かせて。
「気にするな、マスター。次はアイツを置いて、リベンジに行くぞ」
 戦線崩壊のきっかけを作った金髪の男を指差しながら言って、意地悪く囁く。
「あのなあ。司令官を守るのが、お前たちの務めだろうが」
「そうだな。だからお前は、他を投げ打ってでもマスターを守ったんだろう」
「っていうか、ヘラクレス。お前いつまで乗って……メディア、お前なに登っ……ぎゃー! 重いぃぃぃ。死ぬー!」
 ちゃっかり聞いていたイアソンが反論したが、天を向いて沈黙するヘラクレスにメディア・リリィがよじ登った段階で、限界だった。
 両手両足をジタバタさせて、大騒ぎだ。そこにアルゴノーツのメンバーが四方から合いの手を挟んで、医務室前はさながら蛙の大合唱が如き賑わいだった。
 本来静かにすべき場所で、安静にしていなければならない状態なのに騒ぐ彼らを、医神は止めたりしない。
「で、お前はいつまで座っている」
「はは。なんか、腰が抜けちゃったみたいで」
 呆れた様子で肩を竦めた後、ふと言われて、立香は廊下に投げ出したままの脚を指差した。
 大丈夫だと信じていても、自分の目で確かめるまでは、不安だった。
 思ったよりも元気そうな彼らに安心して、気が抜けた。下半身に上手く力が入らないと笑っていたら、深々とため息を吐いたアスクレピオスが、何も言わずに膝を折った。
「ん?」
「愚患者が。じっとしていろ」
 きょとんとしていたら、間際に言われた。
 至近距離から顔を覗き込まれて、口調とは裏腹に、予想外に優しげな眼差しにドキリとした。
「う、わ」
「暴れるな。落とすぞ」
「暴力反対!」
 一瞬身体が重くなったかと思ったら、瞬時に重力から解放された。視界が急激に揺れ動き、最後まで床に残っていた爪先が空を蹴った。
 不本意ながら軽々と、俵の如く担ぎ上げられた立香は叫びつつ、アスクレピオスにしがみついた。
 真っ黒いスクラブに複数の皺を作り、見た目以上に筋肉質な体格が内側に隠れていると知る。
「さて、次はお前だ。特別に、徹底的に治療してやる」
「うぎゃ」
「では、また後でな。マスター」
「おやすみなさいませ」
 固い決意の下に告げられて、ベッドに括り付けられる未来が見えた。
 ヘラクレスに登ったアタランテとメディア・リリィに見送られて、医務室のドアが閉まる。だが中で待ち構えていたネモ・ナースやナイチンゲールの姿を見た記憶は、立香には残されていない。
「ゆっくり休め」
 抱えられたまま、眠りに落ちる寸前。
 アスクレピオスの声を聞いたのは、夢か、それとも幻か。 

2020/07/04 脱稿
朝霞かびやが下に鳴くかはづ 声だに聞かばわれ恋ひめやも
万葉集 巻十

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