忍びにし 声あらはれて ほととぎす

 バカンスも残り僅かとなったが、コテージの周辺では遊び足りないサーヴァントたちの元気な声が絶えない。水鉄砲を武器にはしゃぐ一団を窓越しに眺めて、立香は手にした帽子で顔を扇いだ。
 弱い風を受けた前髪がふわりと浮き上がり、額に蔓延っていた熱がほんの少し遠くなった。生温い唾を飲み込み、深呼吸を二回して、彼はふと目に付いた後ろ姿に首を捻った。
「先輩?」
 それは人理修復を目的として集められたAチーム所属の、マスターとしては立香の先輩格に当たる存在。実際は殺しても死なない吸血鬼という、人ならざる女性。
 更に付け加えるとするなら、愛する男が同行すると思い込み、浮かれ調子で水着に着替えたひと。挙げ句何度となく殺されては、その度に甦るという奇特な経験を繰り返したひと、でもある。
 その虞美人が、リビングのソファに座ってぼんやりしていた。大胆な水着姿で足を組み、頬杖をついて、若干腑抜けた表情で遠くを見ていた。
 項羽がレイシフト先に来ないと聞かされて、激しく落ち込んでいた時に似た雰囲気だ。
 またなにか、意気消沈することがあったのか。
 怪訝に思い、彼女の視線の先を辿って首を巡らせた。それらしきものを探せば、大きな窓の向こうに、ワルキューレたちの姿があった。
 他にも夏仕様のシグルドに、水着に着替えたブリュンヒルデの姿も見えた。
 姦しい三人娘に囲まれた背高の男がなにかを言い、少し離れた場所にいた黒ドレスの美女が顔を赤くした。照れた素振りで身を捩る彼女を振り返り、ヒルドとオルトリンデが再びシグルドに何やら捲し立てた。
 会話の内容は、聞こえてこないので分からない。しかし北欧に由来するあのメンバーにとって、このような光景は日常だった。
 仲が良く、微笑ましい。
 眺めていたら、自ずと頬が緩んだ。パントマイム的なやり取りに、自分勝手な科白を当てはめて楽しんでいたら、割と近い場所から視線を感じた。
 はっと我に返って表情を引き締めるが、一歩遅い。
「なによ」
「いーえ、別に」
 頬杖を解いた虞美人に、不愉快そうに睨まれた。
 ソファの肘掛けに爪を立てて、機嫌は見るからに悪い。咄嗟に首を横に振って否定したが、到底信じてもらえなかった。
 彼女は面白くなさそうに舌打ちを繰り返し、スプリングが硬いソファに深く座り直した。右膝を身体に寄せて、両手で包み込む。細く、長く、しなやかで美しい脚が大胆に晒されたが、当人には恥じらう、という感覚がないようだった。
 彼女にとって、見せるべき相手は項羽ただひとりなのだろう。それ以外の視線は、一切気にならないらしい。
 潔いまでの割り切り方だ。恐らく一生かかっても真似出来ない思考だと、心の中で敬服して、立香は改めてブリュンヒルデたちに視線を戻した。
 彼女達は、夕方から予定されているバーベキューの準備に勤しんでいた。大勢で炭火を囲み、肉に野菜を焼いて食べるイベントは、立香としても楽しみだった。
 だがなにぶん参加者が多いので、網の配置は悩ましい問題だ。ひたすら食べたいサーヴァントと、会話を楽しみながらのんびり食べたいサーヴァントは分けるべきだし、肉ばかり攫っていく連中の皿に野菜を放り込む役も必要だ。
 そういった配分を決めようとしては、シグルドがなにかにつけて惚気て、ブリュンヒルデの手が止まる、といった感じらしい。
 仲睦まじいのは構わないが、少々夏の影響を受けすぎなふたりに、苦笑が止まらなかった。
「相思鳥みたい」
「はい? なんて?」
 先ほどからなにも進んでいない準備係を見ていたら、間近でぼそっと呟かれた。
 瞬時に虞美人に視線をやるが、目は合わない。彼女は解いた手を、今度は頭の後ろにやって、若干仰け反り気味に座っていた。
 天井を仰ぐ眼差しは、ノウム・カルデアに残った男を思い浮かべているに違いない。
 哀愁漂わせた横顔はいじらしく、可愛らしいが、それよりも聞き慣れない単語への好奇心が勝った。
「ソウシチョウ……? て、なんです?」
「はあ? なんでアンタに教えてあげなきゃなんないのよ。自分で調べなさい」
「えええー」
 重ねて聞いてみれば、思いの外横暴な発言が投げ返された。急にガバッと前のめりになり、ソファから腰を浮かせた虞美人に怒鳴られて、立香はあまりの理不尽さに悲鳴を上げた。
 勢いに圧倒されて半歩後退し、首を竦めて、両手は背中に隠した。彼女が親切に教えてくれるとは、実のところあまり期待していなかったけれど、いざその通りになると地味にショックだった。
 仮にもマスターとして、サーヴァントたる彼女と契約している身だというのに。
「どうかなさいましたか?」
 がっくり肩を落として立ち尽くしていたら、虞美人の大声を聞きつけ、キッチンにいた蘭陵王が駆け寄って来た。喧嘩を心配して様子を見に来たらしく、表情はどことなく物憂げだった。
 シグルド同様、夏仕様の出で立ちの青年は、涼しげで、爽やかだ。リビングを見回し、特に問題がなさそうだと胸を撫で下ろして、最後に立香に向かって会釈した。
 朗らかに笑う蘭陵王は、ある意味、虞美人の世話係でもある。なかなかの苦労人だけれど、思うところを存分に吐き出した後などは、非情に晴れ晴れとした表情をしていた。
 彼ならば、知っているかもしれない。
「ねえ。ソウシチョウて、分かる?」
 キッチンとリビングの境界線上に立つ青年に向けて、問いを投げる。
 その瞬間、そっぽを向いていた虞美人がピクリと反応したが、立香は気付かなかった。
「はあ。相思鳥、ですか?」
 数メートル先から質問された蘭陵王は、きょとんとした後、一瞬だけ虞美人を見た。そうして何かを悟った風に微笑み、目を細めて頷いた。
「相思鳥とは、はい。小鳥のことです。嘴が赤くて、小さくて、可愛らしくて。とても美しい声で鳴きます。そういえば今朝も、近くで鳴き声を聞いた気がします」
「へえ」
 左手を胸の高さに掲げ、指先を軽く曲げて大きさを表現しながらの説明に、立香は緩慢に頷いた。どこかで見て、聞いた事があるかもしれないと興味を抱き、無意識に顎を撫でた。
 そんな彼に目尻を下げて、蘭陵王は再び、会話が聞こえているだろうに混じろうとしない女性に視線を送った。
「あとは、そうですね。名前の由来は、つがいのオスとメスを分けると、互いに相手を思い、相手を求めて囀るところから、と言われています」
 若干含みのある顔で言って、立香に向かって深く頷く。
 追加された説明に、汎人類最後のマスターは嗚呼、と息を吐いた。一歩遅れて両手を叩き合わせて、窓の外ではなく、そのずっと手前のソファを振り返った。
「なんだか、先輩みたいですね」
 悪気はなく、思ったままのことを口にしただけだ。
「はああ? なに言ってんの。馬鹿にしてる? 冗談じゃない。どうして私が、そうなるのよ!」
 だというのに、思い切り罵倒された。
 勢いのままに立ち上がり、吼えて、虞美人は握り拳で空を殴った。
 あれが右頬、または腹に当たろうものなら、壁まで軽く吹っ飛んでいた。それくらいの気迫を見せられて、立香は咄嗟に首を竦めて小さくなった。
 そこまで怒るような事を言ったつもりはないのに、逆鱗に触れてしまった。一方で憤懣やる形無い女性は、何度も吼えた所為で居辛くなったのか、淑女たる仕草も忘れて部屋に引っ込んでしまった。
 ドスドスと荒々しく床を踏み鳴らし、肩を怒らせて歩く姿は野生の獣のようだった。
「……今の、オレが悪いの?」
「いいえ、まさか。図星だったので、照れただけですよ」
「なるほど。……なるほど?」
 ドアを閉める音も盛大で、壊れないか心配になるレベルだ。脅威が去った後に恐る恐る訊ねれば、蘭陵王は朗らかに首を振った。
 分かった顔でにこやかに告げて、そこはかとなく嬉しそうだ。彼ほどの境地に辿り着けていない立香は静かになったドアを遠巻きに眺め、顔面真っ赤だった虞美人を思い出し、肩を竦めた。
「来年は、うん。一緒に来られると良いね」
「そうですね。是非、そうであって欲しいです」
 なにが、とは敢えて言わない。蘭陵王も省いた言葉を瞬時に悟り、同意して、深く頷いた。
 夕飯の下拵えに戻る彼を見送り、立香は長く握り締めていた帽子を広げ、浅く被った。この後の予定は、特に決めていない。だが虞美人のように部屋に引き籠もるのは、勿体なくてできなかった。
「探してみよっかな」
 教わったばかりの鳥について、まだ好奇心は薄れていない。新たに得た知識を胸にドアを開け、夏の陽射しが照りつける屋外に出た。
 とはいっても、高所且つ山の中なので、気温はそこまで高くない。日陰を選べば、この時間でも肌寒さを覚えるくらいだった。
「誰か、鳥に詳しいひと、いなかったかな」
 木製のテーブルをひとりで動かしていたシグルドと目が合い、手を振って返す。ヒルドたちが少し騒いだが、遊ぶよりも準備が先だと戒められて、ワルキューレたちはしょんぼりしながら作業へと戻っていった。
 どこもかしこも賑やかで、騒々しく、楽しそうだ。
 見ているだけでも幸せな気分になれて、マスターである立香の頬も自然と緩んだ。
「こんな時間から、どこへ行く。マスター」
 バーべーキューの開始時間はまだ先なのに、待ちきれないのか、一部のサーヴァントが周辺でソワソワしていた。自発的に手伝いに加わる者もあれば、良席を確保して動かない輩もあった。
 それ以外にも、炭火での火傷を期待してか、はたまた肉を巡っての争乱を期待してなのか。珍しい男の姿があった。
「ん? ああ、アスクレピオス。ねえ、鳥のこと、詳しい?」
「なんだ、藪から棒に」
 白衣代わりの白パーカーに、袖には目立つ赤い腕章。医療班所属だと示す証を見せびらかすように歩いて来たのは、ギリシャ神話に連なる英霊だった。
 フードを目深に被っているが、ファスナーを急いで閉めたのか、長いもみあげが半分、服の中に入り込んでいる。だというのにまるで意に介さず、そのままにしている所為で、変なところから毛先がはみ出ていた。
「水分は適時摂取しろ」
「むぐっ?」
 新鮮で、ある意味奇抜な格好に気を取られていたら、いきなり口に固形物が押し込まれた。
 不意を衝かれ、反射的に吐き出そうとしたけれど、舌先と唇に触れた冷たさがそれを押し留めた。急いで突き出ている棒を掴み、引き抜いて、立香は目に飛び込んできたアイスに相好を崩した。
「ありがと。ああ、ソーダ味だ」
 浅く歯形が残る部分を舐めると、ひんやりして心地良い。
 思いがけず、甘味に恵まれた。懐かしくもある味を堪能し、ちびちびと前歯で削っていたら、フードを外して髪を整えたアスクレピオスが口を開いた。
「それで、鳥がどうした。野鳥の死骸でも出たか」
 最初の問いかけは、忘れられていなかった。但し発想が、若干どころか、大幅に特殊な方角に傾いてしまっていたが。
 彼の医学に対する好奇心は、どんな状況下でも色褪せることがない。
 些か不穏な笑みを浮かべられて、苦笑を禁じ得なかった。
「残念だけど、そうじゃなくて。ええっと……ソウシチョウて、分かる? この近くにいるらしいんだけど」
「なんだ、違うのか。つまらない」
 一瞬悪役面になったアスクレピオスだが、否定されて、即座に表情を戻した。心底どうでも良いという雰囲気で吐き捨てて、少々不機嫌になった。
 興味の範囲が、本当に偏っている。
 あまりにも極端な変化に肩を揺らして、立香は汗をかき始めたアイスを舐めた。
 子供の姿をしたサーヴァントのために、薬を色々工夫している、という話も聞いている。もしかしたらこのアイスにも、なにかしら仕込まれている可能性があった。
 ただ彼のやることだから、身体に害が及ぶとは考え難い。
 その辺りは、十二分に信頼している。ふとした拍子に目が合って、微笑み返せば、アスクレピオスは意外だったのか目を丸くした。
「美味しいよ」
「当然だろう」
「ソウシチョウっていうのは、オレもさっき知ったんだけど。嘴が赤い小鳥で、カップルが引き離されると、お互い恋しがって鳴くんだって」
 順調に小さくなっていくアイスを味わいつつ、妙に自信たっぷりな男に早口で語りかける。どうでも良い話を振られて、迷惑がるかと思ったが、アスクレピオスは黙って耳を傾けてくれた。
 だから調子に乗って、虞美人が真っ赤になって怒鳴ったことまで、関係無いのに喋ってしまった。
 その途中でアイスを食べ終えて、立香は唯一残った薄い木の棒を噛んだ。表面にソーダ味が染みついている気がして、捨てるのを惜しんで咥えたままでいたら、伸びて来た白い指に黙って引き抜かれた。
「あ」
 齧っていたものがなくなって、思わず舌で追おうとした。首から上だけを伸ばし、間抜け顔を晒していたら、悪戯の犯人が不遜に笑って奪ったものを揺らした。
 腕を組み、口角を歪めて、アスクレピオスは居丈高に胸を張った。
「そんなもの、探してどうする。今、ここにいるだろうに」
「え、どこ? どこ?」
 言い切られて、立香は愛らしい小鳥の姿を想像した。脳裏に描いたのと似た存在を探し、視線を泳がせ、半身を捻って後ろを振り返りもした。
 慌ただしく左右を見回して、目を凝らすものの、それらしき影も形も見当たらない。鳴き声も当然聞こえなくて、五秒ほど過ぎてから、ようやく一杯食わされたのだと気がついた。
「ちょっと! ……て、なんで離れてくのさ」
 瞬間的に沸いた怒りに背中を押され、叱り飛ばそうとアスクレピオスに向き直れば、肝心の相手は数メートル先にいた。
 何故か距離をとられていた。こちらを見たまま、尚もじりじり後退する彼に、立香は眉を顰めた。
 どうしてアスクレピオスがそんな行動に出たのか、まるで分からない。
 なにかしら理由があるのだろうけれど、皆目見当が付かなかった。
「アスクレピオスってば。ねえ!」
 混乱したまま彼を呼び、声を張り上げる。まるで鳥が羽ばたくように両手を振り回し、爪先立ちになって、声高に叫ぼうとして。
 ようやく足を止めた男が、直前まで立香が咥えていた棒を顔の前に掲げた。
 薄い唇を開き、赤く濡れた蛇の舌を覗かせて、その表面を舐めた。
 見せびらかすように、絡ませて。
 意地悪い顔をして、咥内へと招き入れる。
「な、あ――ああ!」
 一連の仕草をまざまざと見せつけられて、立香は真っ赤になって吼えた。顔から火が出るほどの恥ずかしさに襲われて、膝をガタガタ言わせ、震えが止まらない身体を抱きしめた。
 相思鳥のカップルは、相手を想って甲高く鳴くという。
 アスクレピオスはその鳥が、すでに此処に居ると言った。
「そんなに大声で囀らなくとも、聞こえているぞ。立香」
 とどめとばかりに囁かれて、もう立っていられない。
 火照って熱い顔を両手で隠して、立香はその場で丸くなった。

忍びにし声あらはれてほととぎす 今日ははやめのねにぞ立てつる
風葉和歌集 172

2020/09/13 脱稿

谷深み 思ひ入りにし 道なれど

 向かいから歩いて来た彼は、手にした何かを気にして、視線はそちらに集中していた。
 このままだと真正面からぶつかってしまうが、彼が立香に気付く様子がない。衝突を回避するには、立香が避けてやる必要があった。
 これしきの手間を惜しむつもりはなく、譲ってやらない、という意地悪い感情を抱きもしない。
 至極当然の帰結だ。特段意識することもなく、進路を左にずらせば、そこでようやく、アスクレピオスが顔を上げた。
「ああ、マスターか」
 あと二歩ですれ違うという距離で、やっと存在を認識された。少々意外そうな、どことなく驚いた風に呼びかけられて、立香は肩を竦めて苦笑した。
「どうかした?」
 黙って立ち去っても良かったが、彼がそこまで集中していた理由が気になった。
 興味本位で問いかけてみれば、アスクレピオスは一瞬きょとんとしてから、嗚呼、と合点がいった様子で目を細めた。
「持ち主を探している。心当たりはないか」
 意外にも、話を振られた。いつもなら愚患者には関係無いことだ、などと言って、早々に立ち去ってしまうのに。
 どうやら本当に、困っているらしい。心持ち弱り顔で差し出されたのは、木製の、掌サイズの小物だった。
 半月型をして、直線部分には細かな筋が、横並びに刻まれていた。厚みはさほどなく、半円部の方が若干ふっくらしていた。
 表面は良く磨かれて、筋状になっている部分以外に段差は見られない。
 どこかで見た覚えがある形状に、立香は眉を顰めた。
「これって……」
 何に使うものなのか、ぱっと思いつかない。しかし見た事は、ある。自身で使った記憶ではなく、テレビか、漫画か、ともかくそういった媒体を経由しての知識なのは、間違いなかった。
 戸惑い、返答に窮していたら、アスクレピオスが口角を歪めた。
「くし、だそうだ」
「くし? くし……ああ、櫛か。どうりで」
 即座に名前が出てこなかったのを笑われたが、馬鹿にする空気が薄かったので、気にしないことにした。微妙に異なるイントネーションで告げられたのを修正し、立香はなるほど、と両手を叩き合わせた。
 教えられて、色褪せていた記憶が甦った。パズルのピースがかちりと嵌まった時に似た快感を覚えて、胸がすっとした。
 アスクレピオスが手にしていたのは、シンプルな和櫛だった。
 持ち主を探していると言っていたので、誰かの忘れ物なのだろう。
 立ち話もどうかと思い、立香は踵を返した。なにか知っていそうなサーヴァントがいると期待して、食堂へ行くのを提案すれば、医神と称される男は間を置かずに首肯した。
「先日の、特異点で回収したものだ。看護師に聞いてみたが、所有者は分からないと言われた」
 道すがら事情を端的に説明されて、緩慢に頷く。先日の特異点といえば、あの夏山のことだろう。
 動く屍に興味を抱いたアスクレピオスが騒動を起こしてから、まだ日も浅い。命を狙われた虞美人を含め、全員が無事カルデアに帰還できたのは、幸いとしか言いようがなかった。
「多分、日本の英霊の誰かだと思うんだけど。巴御前か、紫式部かな。あとは沖田さんと、……ノッブは候補に含めていいんだろうか」
 夏休みを満喫したサーヴァントの中で、持ち主らしき存在を指折り数える。その途中で遠い目をした立香に首を捻って、アスクレピオスが先に食堂のドアを潜った。
 広々とした空間は掃除が行き届いており、テーブルはどれもぴかぴかだ。混雑していないが、誰もいないわけではなく、席は何カ所か埋まっていた。
 キッチンカウンターを覗けば、夏山で大活躍だったエミヤの姿があった。留守の間、台所を預かっていたブーディカもいて、夕食の仕込みで忙しそうだった。
「それっぽい人は、いないか」
 ぐるりと見回すけれど、先ほど名を挙げたメンバーは見当たらない。
 当てが外れた立香はどうしたものかと天井を仰ぎ、隣で手持ち無沙汰に佇む男を盗み見た。
「どうしようか」
「紫式部なら、地下だろうが」
「巴御前は、ゲームしてるか、シミュレーターかな?」
 水を向ければ、そもそも訪ねる先を間違えた件を指摘された。立香も愛想笑いで同意して、今一度食堂を見回し、空いていた椅子を引き寄せた。
「エミヤに預けておけば良い気もする」
 浅く腰掛け、アスクレピオスの右手を指差す。提案を受けた男は小さく頷き、未だ所有者不明の品をまじまじと眺めた。
 ただ言われたような、無銘の弓兵に頼みに行く事は無く、立香に向かい合う形で椅子に腰掛けた。綺麗に歯が揃った櫛を袖越しになぞって、何を思ったか、突然腕を伸ばした。
「なに」
 急に櫛を向けられて、驚く暇もなかった。
 前髪を数回、浅くだが梳られた。
 すっと髪の中を行き過ぎた櫛が、同じ場所を何度も、何度も繰り返しなぞる。痛みもなにもなかったのに、立香は反射的に首を下向けた。
「ふむ」
 奇妙な状況に顔を上げられずにいたら、なにを納得したのか、アスクレピオスが感嘆の息を吐いた。
 面白がっているのが丸分かりだ。
「僕の時代にも、似たようなものはあったが。見ろ、マスター。梳いた場所だけ、異様に真っ直ぐになっているぞ」
「……見えないって」
 指差しながら言われたが、生憎と手鏡は持ち合わせていない。丹念に磨かれた銀食器なら、代用品として使えるかもしれないが、わざわざ借りに行くのは手間だった。
 なんとも楽しそうに言われて、立香は呆れ半分で櫛を通された場所を撫でた。すると確かに、普段よりも毛先が艶々して、さらさらになっている気がした。
「そうか。木製だから、静電気が起こりにくいんだな。それにこの匂い……植物性の油を吸わせているのか?」
 アスクレピオスはそうなった理由を探ろうとして、和櫛を鼻に近付けた。微かに漂う匂いの意味を推測して、終始嬉しそうだった。
 さすがは医学に通じ、この分野の発展に強い関心を示すだけのことはある。
 なにかに応用出来るのでは、とまで言い出して、食堂に来た本来の目的を忘れかけていた。
「オレにも、試させてよ」
 放っておけば思索に没頭し、他人の忘れ物なのに、こっそり懐に入れてしまいそうな雰囲気だ。
 それは問題があると考えて、軌道修正すべく手を差し出す。
 集中を邪魔された男はどことなく不機嫌な顔をしたが、立香が諦めないのを悟り、溜め息と共に櫛を手渡した。
 掌に載せられたものを緩く握って、立香は目尻を下げた。
「アスクレピオスの髪の毛、借りるね」
「どうして僕が」
「オレの長さじゃ、見えないんだって」
 膝の裏で椅子を押し、立ち上がって、悪戯っぽく目尻を下げる。
 小首を傾げながら告げれば、先ほどのやり取りを思い出したのか、アスクレピオスは渋々といった態度で頷いた。
 至極嫌そうに顔を歪め、脚を組んで、どこからどう見ても偉そうだ。
 露骨に拗ねている彼を眺めるだけで、自然と頬が緩んだ。ふふ、と肩を揺らして笑って、立香は約束通り、アスクレピオスの長いもみあげに手を伸ばした。
 黒のコート姿の時は編んでいたり、結っていたりして無理だが、今の姿なら毛先まで楽に櫛を通せる。
 先端に向かうに連れてスカイブルーに染まる髪の右側を掬えば、長くしなやかな銀糸がさらさらと零れていった。
 しっかり捕まえておかないと、逃げてしまう。慌てて零れた分を拾うべく、立香は僅かに身を乗り出した。
 床を擦った爪先が、アスクレピオスの座る椅子の脚を掠めた。
 急に目の前が暗くなったのに驚いたのだろう、ふて腐れていた男がもれなく視線を上げた。
「うわ、あ」
 目が合って、思わず声が出た。
 思った以上に近かった。こんなに接近するつもりはなかったのに、髪に触れる距離というものを、存外甘く考えていた。
「どうした」
 甲高い悲鳴を上げた立香を怪訝に見詰め、アスクレピオスが首を傾げた。彼自身は意識していないらしく、早くしろと言わんばかりだった。
 その認識の差が、益々立香の顔を赤くさせた。
「いえ、えっと……あぁあ、アスクレピオスの髪の毛って、綺麗、だよね」
「誰があの羊そっくりだって?」
 言葉に窮し、目を泳がせ、必死に間を繋ごうと繰り出した話題が、思いもよらず地雷だった。
「そんなこと、ひと言も言ってないじゃないか!」
 急に激昂した彼に詰め寄られ、誇大妄想だと反論するが、通じない。
 勢い立ち上がった彼から逃げようと後ろに下がるが、左手が彼の髪を掴んだままだった。咄嗟に力が入った所為で強く握り締めていて、引っ張られたアスクレピオスが痛みに顔を歪めるのを見て、ハッとなった。
 急ぎ指を解こうとするのに、こういう時に限って身体が巧く動かない。
「ちょ、待って……いやあ、こわいいぃ」
「撤回しろ、マスター!」
 重ねて引っ張ってしまい、益々機嫌を損ねたアスクレピオスに詰め寄られた。
 食堂の片隅で言い合うふたりに、仲裁を申し出る親切なサーヴァントはいない。ここでの喧嘩は日常茶飯事なので、下手に間に入ろうものなら、要らぬ面倒を押しつけられると分かっているのだ。
 故に周囲から放置された結果。
 狭い場所でもみくちゃになった所為で、行き場を失った足が椅子を蹴った。傾いて倒れたその椅子にうっかり乗り上げて、バランスを崩して、諸共に床に沈む羽目になった。
「くそっ」
 どんがらがっしゃーん、と盛大な音を轟かせた時だけ、食堂は静かになった。
 立香を押し倒す形になったアスクレピオスは即座に身を起こし、悪態を吐いて、強かに打ち付けた前歯を唇越しに慰めた。
 その彼に跨がられ、床に転がった立香も、また。
 じんじんする歯茎と、咬まれた唇の痛みに、声もなく身悶えた。

2020/09/06 脱稿
谷深み思ひ入りにし道なれど 憂き身はそれも隠れざりけり
風葉和歌集 1405

枝しげみ 露だに漏らぬ 木隠れに

 明け方、あれだけ五月蠅かった蝉の声が、今はまるで聞こえない。
 天頂に輝く太陽は眩しく、燦々と照りつける陽射しは地表を容赦なく焦がした。それでも幾ばくか柔らかな雰囲気を感じるのは、ここが避暑地たるべき場所だからだろう。
 年代物のロッジはどっしりとした外観をして、多少の嵐なら持ち堪えられそうな重厚さだった。家具や調度品はどれも古めかしかったけれど、いずれも立香には馴染みが薄いものばかりで、却って新鮮だった。
 猫が寝床に使いそうな分厚いブラウン管のテレビ、モーター音がやたら騒々しい冷蔵庫。電子レンジはダイヤル式で、一枚だけカバーが違うソファの内側を覗けば、腰掛ける部分が派手に破れていた。
 木製ベッドのスプリングは硬く、乗ればギシギシ言って不安を誘った。紫式部の部屋のテーブルライトは電球が切れていて、しかもスペアがどこを探しても見つからなかったので、最終的にはエミヤが投影することで事なきを得た。
 シャワーの温度調整は水と熱湯のコックを微調整しなければならず、非常に手間取らされた。洗濯機は起動させるとごうん、ごうんと凄まじい音を立てて、横倒しになるのでは、と危惧するくらいに激しく揺れ動いた。しかも洗濯槽と脱水槽が別々で、ひとつの作業が終わる度に、中身を入れ替えなければならなかった。
 ゲームを持参してうきうきだった巴御前も、ケーブルの接続に手間取っていた。差し込み口がどこにもない、とエミヤに泣きついていたので、こちらも投影によって対処したのだろう。
 カルデアのキッチンに棲み着いているのでは、と言いたくなるくらい、台所にしかいないサーヴァントだったので、意外だ。なんでも器用にこなすと聞いてはいたけれど、ここまで多方面に通じているとは思っていなかった。
 そして料理の方も、相変わらず腕が良い。
「ぷは~、生き返る~」
 まだまだ暑い外から帰って、手を洗っていたら、エミヤに声を掛けられた。
 うがいも澄ませてキッチンを覗けば、渡されたのは特製ジンジャーエールだった。
 コップの表面にしゅわしゅわと泡が湧いて、中に入った氷がカラカラと音を立てるのがとても涼やかだ。鼻を近付ければ微かに生姜の匂いがして、ストローで掻き混ぜてからひとくち飲めば、爽やかな味わいが口の中いっぱいに広がった。
 特有の苦みはあまり感じず、蜂蜜が使われているのかほんのり甘い。炭酸が喉の奥で弾ける衝撃が心地よく、ストローがなければ煽って一気に飲み干していた。
「汗はちゃんと拭くんだぞ」
「は~い」
 水面に飾りとして添えられていた色鮮やかな花は、生で食べられるものらしい。
 母親のような事を言われて生返事で応じ、立香は首筋を伝った汗を指で拭った。
 発生した夏の特異点は、虞美人の活躍により、無事に解決した――もとはといえば、彼女が全ての元凶でもあったわけだが。
 あとはこの空間が自然に消滅するまで、残り少ない余暇を楽しむだけだ。
 とはいっても土地に根付いた呪いの類は全て祓い切れておらず、あらゆる脅威が去ったわけではない。実際、まだあちこちでトラブルが発生しており、先日もエミヤが湖で大物を釣り上げたとかで、夕食の席でも非常に楽しそうだった。
 また夏の陽気に浮かれて怪我をしたサーヴァントのために設けていた診療所でも、トラブルは起きていた。もっともそちらは、敵性反応に襲撃を受けたという類ではなく、医療班として配置したスタッフが、職場放棄したのが原因なわけだが。
 連日連夜の騒動を軽く振り返りつつ、残り少なくなったジンジャーエールをちびちび堪能していたら、誰か帰って来たらしい。
「イアソン様の泳ぎ、素晴らしかったですわ。あの天にも届きそうな波飛沫、一生忘れられません」
「ああ、凄かったな。そしてそのまま、鮫に食われてしまえばよかったのに」
「冗談じゃない。だいたいなんで、湖に鮫がいるんだ。おかしいだろう?」
 楽しそうな少女の笑い声に続き、冷静且つ幾ばくかの嘲笑と侮蔑を含んだ女性の声、そして悲壮感と疲労感をたっぷり感じさせる男の声。
 三者三様の感情を伴って現れたのは、メディア・リリィにアタランテ、そしてイアソンだった。
 一本だけ脚が短くてぐらぐらする椅子の上で振り返った立香に、彼女達は軽く頭を下げて挨拶してくれた。最後尾、両腕をだらりと垂らしてぐったりしていたイアソンは、エミヤの怪訝な顔を見るや否や、急に元気を取り戻した。
「俺にも冷たい飲み物をひとつだ!」
「ここは喫茶店ではないんだが……」
 右の人差し指を突きつけられた無銘の英霊は、若干迷惑そうだったが、注文を拒みはしない。呆れた調子で肩を竦めて、すぐに冷蔵庫目指して歩いていった。
 調子が良く、人を使うのが案外巧い古代ギリシャの冒険者は、颯爽と立香の横に近付き、空いていた椅子を引いた。アタランテは部屋に戻ってしまったが、メディア・リリィは残り、愛しい男の横を確保すべく、斜向かいにあった椅子を引っ張った。
「しっ、しっ。くっつくな。暑苦しい」
「大丈夫です。イアソン様は今、とーっても冷たいですから」
「そういう問題じゃない!」
 密着するとそれだけ暑くなるが、メディア・リリィはへこたれない。拒まれてもぐいぐい行って、意中の男にぴったり寄り添った。
「おやおや、仲が宜しいことで」
 傍目から見れば仲睦まじいカップルだけれど、彼らの関係もまた、ひと言では説明出来ないものだ。
 エミヤにからかわれたイアソンは終始仏頂面だったが、愛らしい少女姿のメディアは、至ってご機嫌だ。渡された甘い乳酸菌飲料の礼を言って、ごくごくと半分ほどを一気に飲み干す。湖で水遊びに興じていたのだろう、ふたりとも水着に一枚羽織った格好だった。
 屋内に入る前にある程度水気は拭いてきたらしいが、イアソンの金髪は湿り、ボリュームを欠いていた。先ほどの口ぶりからして、彼は例の親子鮫に追い回されたらしかった。
「怪我は――メディア・リリィがいるなら、心配ないかな」
「はい。もちろんです」
 前線には決して立とうとしない男が、勇敢に鮫に立ち向かっていくとは思わない。
 具体的な説明は一切なかったけれど、様子はある程度想像がついた。その場に居合わせていたら、さぞや面白い、もといハラハラする展開が拝めたのだろうに、残念だ。
 悲惨な経験を思い出しているのか、イアソンは折角のジンジャーエールに一切口を付けていない。にこにこしているメディア・リリィの腕を振り解きもせず、沈痛な面持ちで項垂れていた。
「アスクレピオスの奴がいないのが、悪いんだ。なんだって俺が、こいつに貸しをつくらにゃならんのだ。くそう。全部あいつのせいだ」
 俯いての独り言は聞き取り辛かったけれど、全く聞こえなかったわけではない。
 些か無視出来ない名称が耳に飛び込んで来て、立香は目を丸くした。
「アスクレピオス、いないの?」
 ほぼ空に近いコップをテーブルに戻して、右横を覗き込む。姿勢を低くしたマスターに瞳だけを向けて、イアソンは面倒臭そうに頷いた。
 アスクレピオスは彼らと共に船で旅をしたこともある英霊で、現代では医術の祖として崇められている半神だ。カルデアに召喚された後はメディカルルームを我が物顔で取り仕切り、日々愚患者の治療や、蘇生薬の研究に心血を注いでいた。
 素直な患者相手には親切で、丁寧なのだけれど、そうでない相手には一切の容赦がない。そして自身が死ぬ原因となった蘇生薬の再現も、未だ諦めていなかった。
 その男が特異点に跋扈していた動く屍体、ゾンビの存在を知って、目を輝かせないはずなどない。
 命を失っても動く存在は、死の克服という彼の悲願に、なんらかの助言を与えるものと期待したのだろう。
 だが実際のところ、特異点に現れたゾンビは、そうあるべくして生み出されたものだった。要は『最初から死んでいた』からこその存在であって、死の克服への足がかりになになる部分は少なかった。
 それでも僅かながら可能性を抱き、新たな展望を求め、これを手懐けようとした彼の熱意には頭が下がる。ただ一点のみに固執し、そうすることが人類全体の発展に繋がると信じている辺り、どこぞのバーサーカーにも劣らなかった。
 サンソンから話を聞かされた時は頭が痛くなったが、彼の執着が最終的にどこに至るのか、立香は知っている。
 テーブルに落ちた水滴を指で潰して、人類最後のマスターは立ち上がった。
「放っておけ。どうせ、また怪しい実験でもしてるんだろ」
「それ、放っておいたらダメでしょ」
「平気ですわ、マスター。それに、あの方が怪しい実験をしていない方が、むしろ心配では?」
 ゾンビの飼育が禁じられた医務室に、アスクレピオスはいなかった。
 またもや職場放棄した彼がどこで、何をしているか。ゾンビについてはパラケルススに対処してもらったけれど、一度芽吹いた不安を払拭するのは難しかった。
 引き留めるべく言葉を発したふたりに苦笑を返して、立香はエミヤに軽く手を振った。
「帽子を忘れないように」
「は~い」
 やはり母親のような事を言ったサーヴァントに返事して、色褪せた床を踏みしめる。大股でキッチンを出て、一瞬だけ振り返れば、背凭れに肘を預けたイアソンが、口角を歪めて笑っていた。
 嫌味で、なにか含みのある表情に、立香は反射的に顔を赤くした。
「別に、いいじゃん。マスターなんだから、オレ。サーヴァントがなにか変なことしてないか、ちゃんと把握してないと、後で新所長に怒られるのはオレなんだし」
 慌てて前に向き直り、火照った頬をぺちりと叩いた。早口でひとり捲し立てて、最後に咳払いをひとつして、心を落ち着かせた。
 特になにか言われたわけではないのに、なにを慌てているのだろう。
 バクバク言う心臓を宥め、呼吸を整えて、立香はほんのり苦い唇を舐めた。
 深呼吸を三度、四度と積み重ね、釘付けになっていた足を改めて動かした。小窓付きのドアを開け、外に出れば、屋内では感じなかった湿度に圧倒された。
 むわっとした空気が足元から立ちこめて、全身を包み込んだ。
「あ、帽子。……いっか」
 エミヤに言われたのに、陽射しから頭部を守ってくれるアイテムを忘れた。しかし今さら戻って、ロビーに面して開けているキッチン前を横切るのも、恥ずかしかった。
 キィキィ揺れているドアを窺って、立香は肩を落として溜め息を零した。帽子を諦め、極力日陰を選んでしばらく進めば、湖畔で遊ぶサーヴァントの歓声が、姿は見えずとも聞こえて来た。
 障壁となるものが少ないから、声はよく響く。特に少女や、女性らの甲高い声は、この距離でも割と聞き分けられた。
 皆、思い思いに夏を楽しんでいた。
 立香自身、思わぬ展開に四苦八苦させられもしたが、命を張った分、有意義な時間を過ごせた。
「でも、オレが女になってたっていうの。なんか、変な感じだな」
 マシュたちから聞かされた話では、彼女らと行動を共にしていた偽マスターは、女性だったらしい。陰陽の関係でそうなったと伝えられたが、そう言われてもいまいち実感が湧かなかった。
 直接対面したわけではないので、なんとも表現がし辛い。けれどもし、叶うなら、顔くらい見ておきたかった。
「……あ、いや。今ちょっと、グサッときた、かも」
 脳内で思い描いた、顔のない少女。その横に何故か、これから探しに行こうとしている存在まで現れて、彼は握り拳を胸に押し当てた。
 自分でやっておきながら、傷ついた。
 慌てて別のことを考えようと首を振って、立香は奥歯を噛み、天を仰いだ。
 憎らしいくらい目映い太陽を掌で遮って、それでも防ぎ切れない光に目を眇めた。窄めた口で息を吐き、吸って、不意にくらりと来た頭を片手で抱え込んだ。
「っと。大丈夫、大丈夫」
 よろけたが、なんとか持ち堪えた。靴底で雑草を踏み、砂利を蹴る。内腿に力を込め、姿勢を安定させて、情報を得るべく診療所が設けられているテントへ向かった。
 ひと声掛けてから入った内部には簡素なベッドが複数台並べられて、包帯や消毒液を入れた棚の前に、診察用の椅子が並べられていた。
 ベッドのうち三つが埋まり、ふたつが空。点滴を受けているのが一名、氷枕をして横になっているのが二名、という具合だった。
「おや、マスター。どこか痛めましたか?」
「ううん、そういうんじゃないけど」
 健康な存在が来る場所ではないので、サンソンの問いかけは当然のものだ。ごく自然と体調を聞かれて首を横に振り、立香は改めてテント内を見回した。
 ナイチンゲールは空のベッドを消毒し、シーツを整えていた。手慣れたもので、動きに一切迷いがない。場所が気になるのか、ベッドごと持ち上げて移動させるのも、お手の物だった。
 忙しくしている看護師と、医者兼処刑人。
 立っているのはこのふたり以外は、立香だけだった。
「アスクレピオスは?」
「あの方でしたら、昼前にふらっと」
「行き先は?」
「さあ、そこまでは。心配ですか?」
「えっ。えー……まあ、うん。また、なにかやらかしてないかな、って」
「ふふ」
 イアソンから聞いて知っていたけれど、自分の目で確かめるまでは、僅かに期待していた。
 たまたま席を外していただけ、という希望的観測は外れて、感情が顔に出たらしい。目を泳がせながらの返答に、サンソンは声を殺して笑った。
 暑くないのか、夏でも分厚いコートを脱がずにいるアサシンは楽しげに目を細め、肩を揺らした。睨み返しても平然と受け流されて、立香はぶすっと、赤く染まった頬を膨らませた。
「なにさ」
「いいえ。とてもお可愛らしいと」
「オレ、男なんですけど」
「存じています、もちろん」
 文句を言うが、まるで歯応えがない。
 呵々と笑うでもなく、胸に手を添えて慇懃に頭を下げられて、完全に毒気が抜けてしまった。
 ここで言い合っていても、時間の無駄だ。歯軋りして悔しさを打ち消して、立香は左手で顔を半分覆い隠した。
 苛々して、もやもやして、それでいて照れ臭い。様々な思いが混在する感情に蓋をして、深く長い溜め息で鍵を閉めた。
「アスクレピオスなら、土壌に含まれる呪術的要因の毒素を調べる、と言っていました。この特異点のゾンビは、そうあるべくして現れた存在でしたが、あれらの行動を制御し、誘導する素因が土地の魔力に備わっているのではないか、という話で」
 魂を失って尚動く肉体と、魂がなくても動き回る肉体は、似ているようで意味がまるで異なる。
 結局この不衛生極まりない屍体は、医神が目指す領域に程遠い存在だった。けれど飲食を必要としないゾンビが、どこからその活動エネルギーを確保し、また思考力を備えないくせに人を選別して襲う原因について、好奇心が擽られたらしい。
 ひとつの仮説が頓挫しても、すぐに次に取りかかる。その不屈の精神は、見習うべきだろう。
「……で、サンソンはオレに何が言いたいわけ?」
 些か早口の説明に、立香は眉を顰めた。上目遣いに睨まれた英霊は、満面の笑みを浮かべて、返答を拒んで背を向けた。
「さて、次の患者への準備に取りかかりましょうか」
 わざとらしく話題を逸らし、振り返らなかった。マスターを無視するとは良い度胸だと言わざるを得ないが、彼の意図は簡単に読み解けた。
 土壌の調査だけなら、そう遠くまでは行っていまい。
 さりげなくもないヒントを与えられて、立香は苦虫を噛み潰したような顔をした。
 イアソンといい、サンソンといい、どうして皆、こうなのだろう。
 既に広く知れ渡っているという現実を突きつけられて、じっとしていられなかった。
「お礼は言わないから!」
 捨て台詞を吐き、踵を返した。見送られることもなくテントを出て、日陰を探して左右を見回し、当てずっぽうで右を選んだ。
 具体的な場所は、教えてもらえなかった。もとい、サンソンも知らないのだろう。
 あとは地道に、歩いて探すしかない。広大な敷地を前にして、再び目眩がしたが、堪えて足を繰り出した。
 山を削って作られた道を行けば、肌に纏わり付く湿気が一段と増えた気がした。ロッジでは聞こえなかった蝉の声が微かに響き、風がないのに樹木が揺れて、ざわざわと空気が波打った。
 木々が陽の光を遮り、昼間だというのに辺りは暗い。手入れされなくなって久しい山道は大きな石が多数転がって、隙間から雑草が伸びていた。
 苔生した岩肌は滑りやすく、足運びを間違うとバランスを取るのさえ難しい。転ばないよう慎重に進んで行けば、清々しい緑が胸を洗ってくれるようだった。
 土地に根付いた呪いの類はまだ残っているが、聖杯が回収されたことにより、少しずつ薄まっているようだ。頭上を埋める緑も心なしか鮮やかさを増して、立香を受け入れてくれている気がした。
「……すー、……はー」
 両手を広げ、深呼吸を二度。未だ姿が見えない医神を求め、目を凝らしては、落胆して。
 同じ事を、かれこれ何十回、繰り返したことだろう。
「やっぱ、帰ろうかな」
 結構な距離を歩き回ったが、アスクレピオスが通った痕跡すら見つからない。それどころか、散歩するサーヴァントも一騎として見かけなかった。
 誰ともすれ違わない。
 誰とも会えない。
 一抹の寂しさは、心に隙間風を呼び込んだ。虚しさが広がって、切なさが足取りを重くさせた。
 ここまで探しても見つからないのだから、どうやっても逢えそうにない。
 足は棒のようになり、はっきり見えないけれど、陽は西に傾きつつある。そろそろ決断しないと、日暮れまでにロッジに帰り着けない。
 皆に無用な心配はかけたくなかった。マスターが行方不明の事態になろうものなら、特異点の消滅を待たず、ここは強制的に閉鎖されてしまうかもしれない。
 せっかくの夏のバカンスを楽しんでいる仲間達に対し、その判断はあまりに非情だ。
「よし。戻ろう」
 結論を出すのは、早かった。
 自分自身の感情と、カルデア全体の利益とを天秤にかければ、そうなるのは自明だった。
 そもそも、両者を比較すること自体が間違っている。立香にその権限はない。彼には汎人類史最後のマスターとして、漂白された世界を取り返す義務が課せられていた。
 緩く握った拳を振って、身体を反転させた。一本道を進んできたので、通って来たルートを辿れば、難なくロッジに戻れるはずだ。
 夕食はなんだろう。そろそろカレーに飽きてきたので、違うものが食べたかった。
 エミヤが釣った魚で、なにか作ってくれないだろうか。出来るだけ楽しいことを想像し、期待に胸を膨らませて、立香は人の頭くらいある石を跨いだ。
「おっと」
 その際距離感を見誤り、踵が石を削った。想定していた通りに身体が動かず、踵が浮いた分だけ前につんのめり、両手をばたばた振り回すことで転倒を回避した。
 姿勢を低くして、そのまま座り込む。
「あ……あれ?」
 立てなかった。
 心なしか、声も嗄れていた。目の前がぼやけて、物の輪郭が二重にぶれて見えた。
 吐き気はしないが、胃の辺りが急にむかむかし始めた。頬に触れれば熱っぽく感じたが、それが平熱の範囲なのか、逸脱しているのかは、判断がつかなかった。
 帽子は被っていないけれど、なるべく直射日光は避けていたのに。
「帰らなきゃ、なの、に」
 膝に両手を置き、腹に力を込めるが、太腿が痙攣を起こしてまともに機能しなかった。無理に立とうとした所為で、却って目眩が酷くなり、頭の中で巨大な鐘がぐわん、ぐわんと鳴り響いた。
 目を瞑っても、気持ち悪さは抜けない。意識だけは手放すまいと歯を食い縛り、内腿を抓って耐えるものの、いつまで保つかは不明だった。
 ここで立ち往生している間にも、どんどん時間は過ぎていく。
「そうだ、通信機……は」
 最後の術として救助要請を出そうとしたが、肝心の通信機を持っていなかった。
 まさかこうなるとは思ってもいなくて、装備は貧弱だ。結果的に仲間達に多大な心配と、迷惑をかけることになって、目の前は真っ暗だった。
 絶望感に打ち拉がれて、ただでさえ残り少ない水分が涙となって消化されていく。一気に心が弱体化して、立香は音立てて鼻を啜り、唇を噛んだ。
 このまま誰にも見付けてもらえず、ひとり憐れに朽ちていくのだろうか。
 あり得ないと分かっていても、想像が止まらない。女性として現れた偽りの自分が、霞む視界の向こうで笑っているようだった。
 幻聴がして、ハッとなって顔を上げて、そこに何もないと知って項垂れる。
 抱え込んだ膝の間に顔を埋めて、小さな子供に戻って丸くなった。
「そこでなにをしている」
 比較的はっきり聞こえた低い声も、きっと幻だ。
 全ては自分が望み、思い込んだ世界の出来事。一夜にして消え去ってしまう、蜃気楼の見せる夢だ。
「なにをしているのか、と聞いているんだ。マスター、返事をしろ」
「あでっ」
 けれど繰り返された問いかけと、一歩遅れて後頭部を直撃した痛みは、どう考えても空想の産物ではない。
 脳髄を激しく揺さぶられ、ただでさえ体力が限界だった立香はその場に膝をついた。剥き出しの素肌に小石が食い込み、尖った部分が皮膚を刺す感触は、紛れもない本物だった。
 両手も地面に置いて、四つん這いを崩したような姿勢で固まった。呆然としたまま乾いた地表を見詰めて、溢れ出かけた唾液を急ぎ飲み込んだ。
 ズキズキする膝の痛みを堪えて振り返れば、視界に入ったのはカラスにも似た漆黒の衣だった。
 だらりと垂れ下がった長い袖先が、当て所なく揺れていた。傍らには機械仕掛けの蛇がいて、首らしき場所には大きな麻袋が括り付けられていた。
 どこを探しても見つからなかったのに、探すのを止めた途端、見つかった。
 古い歌にもある通りの現象に、立香は言葉も出なかった。
「え、あ……え……」
 なにか言おうとするけれど、舌が痺れて声にならない。
 呻くような単音に、カラスを模した嘴を外し、アスクレピオスは眉を顰めた。
「顔色が悪いな。見せろ」
 地面に這い蹲ったまま動かないマスターを怪しみ、医神の名をほしいままにする男が膝を折って屈んだ。小首を傾げ、手を伸ばし、問答無用で立香の顎を掴んで引っ張った。
 袖の上から唇をなぞり、頸部に指先を添えた。首の後ろにも手をやって、耳朶を軽く捏ね、納得したのか、ひとつ頷いた。
「水分を摂取したのは、いつが最後だ。帽子はどうした。……いや、言わなくて良い。黙って大人しくしていろ。足のそれは、今できたものだな」
 さっさと立香の状態に結論を出して、無理に説明は求めない。さりげなく手を添えて、立香が地面に座り直す手助けをした。膝小僧に貼り付いた砂埃をサッと払い、うっすら滲んでいる血に目を留めて、肩を竦めた。
「あの」
「黙っていろと言わなかったか」
「ひゃい」
 食い入るように見詰められて、居心地が悪い。
 喋りかけようとすれば瞬時に愚患者判定を下されて、立香は首を竦めて小さくなった。
 アスクレピオスは露骨が過ぎる溜め息をひとつ零し、機械仕掛けの蛇が地面に降ろした袋を引き寄せた。口を広げ、中を探って、取り出したものを無造作に放り投げた。
 空中で孤を描いたものを受け止め、表面を見れば、経口補水液という文字が大きく印刷されていた。
「飲め」
 採取したサンプルが詰め込まれているのだとばかり思っていたが、違った。唖然としている立香に偉そうに言って、黒衣の医者は短時間で痺れを切らし、人の手からボトルを奪い取った。
 飲めと言ったのに、盗られた。どういう理屈かと困惑していたら、アスクレピオスは荒っぽくボトルの首を捻り、蓋を外したものを、改めて立香に差し出した。
「あ、……ありがとう」
 開けてくれるのなら、そう言ってからやればいいのに。
 肝心なところでひとつ、ふたつ足りていない男に堪らず噴き出して、立香は少々温い液体を喉に流し込んだ。
 味はあまりしない。飲み慣れたジュース類に比べると、甘みはずっと控えめだった。
「美味しい」
「……そうか」
 久しぶりの水分摂取に、身体全体が喜んでいた。
 率直な感想を述べれば、聞いていたアスクレピオスは難しい顔をした。口をへの字に曲げて眉間に浅く皺を刻み、立香の右膝に出来た真新しい傷の脇を撫でた。
 不機嫌な表情から、彼の心の内は読み解けない。なにを考えているか想像を巡らせるけれど、なにひとつ正解に辿り着けずにいたら。
「愚患者が」
 短く吐き捨てた男が、不意に頭を低くした。
「んんっ」
 アスクレピオスは立香に向かって前のめりになり、膝の手前で薄い唇を開いた。中から緋に濡れた舌が零れ落ちるのを見て、立香はペットボトルを咥えたまま、軽く噎せた。
 慌てて利き足を引っ込めようとするけれど、間に合わない。
 チリッとした痛みの後に、むず痒くてならない熱が、擦り傷を中心に広がった。
「んぶっ、げほ。けほっ」
 何をされたか、はっきり見えたわけではない。けれど位置的に、舐められたと思って間違いないだろう。
 消毒のつもりなのか。人間の唾液には大量の細菌がいて、俗信は不衛生で非現実的だなどと、前に言っていなかっただろうか。
 繰り返し噎せて、気道に入った補水液を外へ追い出した。濡れた口元を手の甲で拭いて、息を整え、立香は残り少なくなったボトルの中身を波立たせた。
「これで立てるな」
「たっ……立てる、わけ。ないだろ!」
 姿勢を戻した男にしれっと言われて、反射的に怒鳴り返す。
 顔は、鏡がないので見えないけれど、確実に真っ赤だ。飲み物をもらったお蔭で少しは回復出来たのに、戻って来た体力の全てを、先ほどの罵声で浪費してしまった。
 ぜいぜい言って、くらっと来て、気が遠くなった。
 仰向けに倒れそうになって、力を失った手を、すんでのところでアスクレピオスが掴んだ。
 力任せに引っ張られた。抗う気力すらなくて、立香は促されるまま彼の肩に額を預け、凭れ掛かった。
 ホッとしたのと、嬉しいのと、恥ずかしいのとで、頭が追い付かない。
「ばか」
 どうにか絞り出したひと言は、果たして彼に届いただろうか。
 確証はない。追求する気にもなれない。
 アスクレピオスは黙って立香の背に腕を回し、背骨をなぞるように上から下へと手を動かした。反対の手で後頭部を包み、黒髪をくしゃりと掻いて、赤子をあやす仕草で弱り切った体躯を撫でた。
「お前が、無事で、よかった」
 聞こえた囁きは、蜃気楼が見せた幻ではないと信じたい。
 夢うつつの境界線で微笑んで、立香は恋しい男にしがみついた。
 

枝しげみ露だに漏らぬ木隠れに 人まつ風のはやく吹くかな
風葉和歌集 207

2020/08/29 脱稿

夜もすがら 物や思へる ほととぎす

 微かな物音と気配を感じ、蘭陵王は顔を上げた。
 広めのリビングルームを中心に配されたドアがひとつ、開かれようとしていた。読んでいた本に引き摺られがちな記憶を整理し、現実と非現実を区別して、彼は嗚呼、と少し困った風に目を細めた。
 今回の特異点に関して、なにか参考になればと思い、紫式部から借りた本に栞を挟む。それなりに分厚い書籍からぶら下がる紫色の紐の位置は、物語がクライマックスに突入しているのを意味していた。
 名残惜しいが、今はここまで。
 読書に夢中になっていた己を戒めて、蘭陵王はやや古めかしいデザインのソファから立ち上がった。
「マスター、眠れないのですか?」
 手元灯りにしていたランプシェードでは心許なく、壁に寄り、三つ並んだスイッチのひとつを押した。途端に天井の地味なシャンデリアがぱっと明るくなって、足元に薄い影が落ちた。
 急に辺りが眩しくなって、部屋から顔を覗かせた青年が僅かに怯む。
 了解を取ってからすべきだったと軽く悔やんで、蘭陵王は首を横に振った。
「なんか、ね。……うん。ちょっと」
 自虐的な思考を一旦脇へ置き、視線を戻せば、上着を脱いだだけの青年が照れ臭そうに呟いた。
 首を竦めて、俯きがちであり、恐縮しているようにも見える。思考がまとまらず、言葉に窮している風にも感じられて、蘭陵王は細く息を吐いた。
「なにか、お飲み物でも用意しましょうか」
「ええ、いいよ。……いや、ああ、うん。じゃあ、お水、もらえるかな」
 浅い眠りから目覚めたばかりで、意識が完全に回復しているとは言い難い状態らしい。
 手助けのつもりで、胸に手を添えて囁けば、ハッとなったマスターが途中で言い直した。
 喉は渇いていたようだ。だが準備に手間や、時間がかかる大袈裟なものは欲しくない。そういうことらしかった。
 遠慮しているようで、遠回しに強請られた。
 どこか焦っているマスターにふっ、と笑みを零して、蘭陵王は鷹揚に頷いた。
「では、少しお待ち下さい」
 料理上手のアーチャーを手伝い、何度もキッチンに入っているので、飲み物やコップの位置は頭に入っていた。冷蔵庫には、冷えた麦茶の残りがあったはずだ。
 ただの水道水では味気なかろうし、マスターの出身国からして、そちらの方が喜んでくれるに違いない。氷を二個か、三個か入れたところに注げば、寝汗で消費された水分を補うには充分だ。
 数秒先の行動を頭の中に思い描き、蘭陵王はちらりと後方を窺った。無地のタンクトップ姿の青年は、スリッパで床を削るようにして進み、先ほどまで蘭陵王が座っていたソファの向かいに腰を下ろした。
 そうして手持ち無沙汰気味に周囲を見回したものだから、一瞬だけ目があった。にこりと微笑み返せば、ぱっと目を逸らされたのは、自意識過剰かもしれないが、些か寂しかった。
「コップは、……こちらにしましょう」
 気を取り直してキッチンブースに入り、綺麗に洗われたコップをひとつ、手に取った。夕食の際にも使用したもので、丁寧にカットされたガラスが美しかった。
 逆さまに並べられていたものをひっくり返し、続けて年代物の冷蔵庫のドアを開けた。力を入れたつもりはないのに、ガコンと嫌な音がして、扉の内側に整列していた飲料のボトルが大きく波打った。
 麦茶はペットボトルではなく、花柄が愛らしいガラスの入れ物に入っていた。
 持ち運び易いよう、容器の側面には取っ手があり、その分だけ幅を利かせていた。お蔭で余分な隙間が出来て、安定が悪くなっているようだった。
「これは、どうしようもないですね」
 冷蔵庫を開閉する度にガタガタ揺れるものだから、落ち着かない。しかし綿を詰めるわけにもいかなくて、彼は苦笑しながら目当てのボトルを引き抜いた。
 ドアは手で軽く押して閉め、尻で追い打ちを掛けた。油断すると完全に閉まらない、とアーチャーが初日にぼやいていたのが、ふと思い出されたからだ。
 よく冷えた麦茶をひとり分用意してロビーに戻れば、マスターが何かを手に取り、膝で広げていた。
「どうぞ」
「ありがと。これ、読んでたの?」
「はい。前もって知識を蓄えておけば、いざという時、落ち着いて対処ができますから」
 隙間が増えたテーブルにグラスを置き、慌てて本を閉じたマスターの問いに答える。受け取った本の表紙には、おどろおどろしいイラストが描かれていた。
 タイトルも読み手の恐怖を誘う字体が使われていて、内容は言わずもがな。
 なるべく強烈なものが良い、というリクエストに紫式部が応えてくれたわけだが、実際、内容はかなり醜悪だった。
 舞台はここと同じ、山深いコテージ。合宿で訪れた若い男女がとある理由で建物内に閉じ込められ、挙げ句に殺人事件が発生する。恐怖に駆られた登場人物は次第に疑心暗鬼に陥って、更には第二の殺人が発生し、混乱は深まっていく――
 興味深そうにしているマスターの為に、内容を掻い摘まんで説明し、蘭陵王はソファに戻った。先ほどと同じ位置に腰掛けて、一度は書面を開いたが、すぐに閉じた。
「面白い?」
「そう、ですね。興味深くはありますが」
 無実でありながら疑いをかけられ、追い詰められていく登場人物には同情を禁じ得ない。しかしそうせざるを得なかった糾弾者たちの気持ちも、少なからず分かってしまう。
 不可解な現象が頻発して、ジャンルとしてはホラーであるが、人間の深層心理が強く反映された話だ。あまりにも救いがなくて、生前のあれやこれやが度々フラッシュバックするのもあり、正直一度読んだら充分、と感じていた。
 それでも途中で止めることなく、次のページを開き、最後まで読み通すつもりでいるのは、生まれ持った生真面目さが原因とも言えた。
「損な性格してるよね、蘭陵王って」
「言わないでください……」
 現在の心境を包み隠さず吐露すれば、マスターは呵々と笑った。よく冷えた麦茶を取って、軽く頭を下げた後、口をつけた。
「冷たい」
 汗をかき始めていたグラスをなぞって線を残し、ひとくち飲んで呟いて、再びグラスを傾ける。
 ごくごくと、喉仏が上下に動いた。彼自身が思っていた以上に、彼の身体は餓えていたらしかった。
 角が丸くなった氷だけになったグラスを勢い良くテーブルに置いて、マスターは濡れた口元を拭った。顔色は幾ばくか良くなって、肌も艶を取り戻し、瞳には生気が満ちていた。
「おかわり、持ってきましょう」
「いいよ、大丈夫。ありがとう」
 気持ちの良い飲みっぷりに、蘭陵王まで不思議と嬉しくなった。顔を綻ばせ、腰を浮かせたが、マスターに首を振って制された。
 仕方なくソファに腰掛け直せば、斜向かいに座る彼はふっと視線を逸らした。
 この顔が気に入らないのかと不安になって、気付けば自分の頬に手を添えていた。鼻筋を隠し、口元を覆って向かいを窺えば、マスターは依然余所を見たままだった。
 どこを見ているのかと視線の先を確かめて、納得出来る答えを見付けて、安堵する。
「……ああ。もうじき、夜明けですね」
 屋外のウッドデッキに繋がる大きな窓にはカーテンが引かれていたが、隙間から、ほんの僅かに光が差し込んでいた。
 時計を見れば、日の出まであと数分といったところだろうか。
 眠っている時、人は無防備になる。必ず誰かが起きて、警戒に当たることになっており、今宵は蘭陵王がその役目を任されていた。
 眠らないように、そして退屈しないように読み進めていた物語でも、場面はちょうど、このような時間帯に差し掛かっていた。
「太陽が湖面に反射して、綺麗ですよ」
「へえ……」
 人間であるマスターは、普段であれば今のこの時間は、夢の中だ。
 一度だけ目にした光景を口に出せば、彼は興味を示し、深く頷いた。
 しどけなく開いていた口を閉じて、何かを決意したのか、眼光を鋭くした。力強く頷いて、両手で太腿をぽん、と叩き、勢いつけて立ち上がった。
「マスター?」
「ちょっと見て来る」
「ええ? 危険ですよ」
 彼の行動の意図が読み解けず、ぽかんとしていたら、にこやかに告げられた。目を細め、悪戯っぽく歯を見せて笑いかけられて、蘭陵王は咄嗟にソファを蹴り飛ばした。
 ただでさえこの特異点では、奇怪な事ばかりが起きていた。不用意に外に出るのは、命を捨てる行為に直結した。
 慌てて追いかけ、颯爽と歩き出したマスターの手を掴む。引き留め、真顔で叱りつけるが、彼の決意は揺るがなかった。
 それどころか。
「蘭陵王が一緒なら、大丈夫だって」
 臆面もなく言われて、驚きが隠せない。
 満面の笑みで信頼を示され、唖然としてしまい、力が緩んだ。その隙に脱出したマスターは大股でロビーを横切り、止める間もなくドアを開けた。
 風が吹き込み、前髪を揺らした。本来の色を忘れた毛先を押さえつけて、蘭陵王はソファの傍らに据えていた剣を掴んだ。
「お待ちください、マスター」
 早く傍に戻らねば、と気が急いて、声が上擦った。いつでも鞘から抜けるよう構えつつ追いかけ、外に出れば、空色の瞳の青年はポーチを抜けた先の石畳に佇んでいた。
 視線は湖面に固定されていた。その向こうに連なる稜線は、同化していた夜空から分離すべく、僅かに明るく照っていた。
 警戒が必要な敵影は、今のところ見当たらない。息を潜め、注意深く探るものの、それらしき気配は皆無だった。
「霧が、邪魔かな」
 慌ただしく左右を窺う蘭陵王を知らず、前を見据えたまま、マスターが呟く。
 気温差のためか、湖の周辺には薄く霧がかかっていた。輪郭は水で滲ませたかのように揺らいで、ある意味幻想的ではあるけれど、迷い込めば足を掬われかねなかった。
 彼があまり遠くまで行かなかった原因を悟り、蘭陵王は警戒を解かないまま、注意深く歩み寄った。
「へくちっ」
「うん?」
 その耳に、微かに可愛らしい声が響いた。
「マスター?」
 今のくしゃみが、誰によるものか、一瞬分からなかった。
 この場には自身ともうひとりしか存在しないので、答えは自ずと明らかだ。だというのに随分と愛らしい声だったから、本当にそれが彼のものか、疑わずにいられなかった。
「うへへ。うん、なに?」
 半信半疑の呼びかけに、マスターは鼻の下を擦りながら答えた。露骨が過ぎる誤魔化し方は不器用の極みで、持ち合わせた性格や、生き様が垣間見えた気がした。
 頬がほんのり朱に染まっているのは、気恥ずかしさだけが原因ではあるまい。
 咄嗟に左肩に手が伸びたのは、平素の格好であれば、そこに外套を装備していたからだ。
 けれど今の服装は、夏の余暇を楽しむマスターに合わせて選んだもの。且つ涼しさを追い求めた結果であるから、夜明け前の肌寒い空気を防いでくれる装備品は、一切付随していなかった。
 高地なだけあって昼と夜の寒暖差は激しく、日中の感覚で出歩くと、身体を冷やしかねない。
「い、いえ。あの。そう、ですね。やはり、中に入った方が」
「平気だって。それに、次も見られるかどうか、分かんないし」
 提案するが、爽やかに却下された。
 屈託なく笑って告げられた後半部分は、恐らくは独り言だったのだろう。しかし朝の澄んだ空気は、考える以上に音が通った。
 湖に向き直ってしまったマスターの思いは、蘭陵王には分からない。ただ無理矢理連れ戻すと、彼も、自分も、きっと後悔しか残らないというのだけは、理解できた。
 あの物語でも、夜明けが近付く前、主人公は生存者の未来を左右する重要な決断を下していた。
 暖かな毛布を取りに戻れば、マスターをこの場にひとり残すことになる。それは許されない。ならどうするか、考えて、迷って、何気なく見たのは自身の掌だった。
「へ……くしゅっ」
「やはり寒いのではないですか、マスター」
「大丈夫だって、これくら……うわっ」
 剣を持っている手も合わせてぎゅっと握り、拳を前後に振って、彼との距離を詰めた。再びくしゃみをしたマスターに歩み寄り、語りかけ、逃げられる前に捕まえた。
 肩越しに振り向いたマスターは、予想外に近くに居た蘭陵王に驚き、悲鳴を上げた。反射的に仰け反って、彼が離れようとするのを見越して、両腕を伸ばした。
「失礼、します」
 こんなことをすれば嫌われるとか、気味悪がられて今後避けられるかもとか、考えなかったわけではない。けれど現在進行形で身体を冷やしているマスターを放置する方が、どう考えても恐ろしかった。
 遠慮がちに囁いて、縮こまった体躯を引き寄せた。なるべく肌が接する箇所を増やし、隙間を埋めて、想像以上に冷たくなっていた彼の手に手を重ねた。
 真後ろから抱きしめて、息を殺す。
 反応を窺って盗み見たマスターは、顔を背け、余所を向いていた。
「心配ないって、言ってるのに」
「申し訳ありません。これしか思いつかなかったので」
 不満げに文句を言われたが、抵抗して、振り解かれることはない。
 それがなんだか嬉しくて、蘭陵王は湖面を照らし始めた太陽ではなく、日焼けした柔らかな首筋ばかりを瞳に焼き付けた。

夜もすがら物や思へるほととぎす 天の岩戸をあけがたに鳴く
風葉和歌集 152

2020/08/22 脱稿

重ねつる 袖の名残も とまらじな

 じゃあああ、とバケツから溢れた水が砂に溶けていく。
 晴れ渡る空と同じ色をした容器の底には、それより若干色が濃く、艶があるホースの先が沈んでいた。蛇のようにうねるホースはしばし離れた場所にある水道の蛇口と繋がっており、そこから絶えることなく、水が供給され続けていた。
 時折ボコッと大きな泡を立てるバケツの水面は常に波立ち、上空から注がれる光を受けてきらきら輝いていた。乱反射する輝きは宝石の如く美しいが、じっと見詰めていると、眼を焼かれてしまいそうだった。
「まったく」
 ゆらゆら動き続ける水面をぼうっと眺めていたら、頭上から呆れた声が降ってきた。
「アスクレピオス」
 顔を上げれば、すっかり見慣れた顔がそこにあった。但し普段から見慣れた格好ではなくて、景色に馴染む夏向きの出で立ちだった。
 白いパーカーは長袖で、指先だけが辛うじて表に出ていた。反面七分丈のハーフパンツは裾が絞られており、モスグリーンの布から伸びる脚はすらっと長く、程よく引き締まっていた。
 足元はサンダルだが、安物のビーチサンダルとは違っていた。そうと分かり難いものの、踵が少し高くなっている辺り、ユニセックスのものを選んだのだろう。
 移動中に被ったのか、爪先が少し砂で汚れていた。
 水色のバケツ横に立った男をぼんやり仰いで、藤丸立香は軽く首を捻った。
 直後だ。
「砂浜を裸足で歩き回るとは、軽率が過ぎるぞ。マスター」
「冷たっ」
 不意に細長いものを、右の頬に押しつけられた。
 大量に汗を掻いた容器は紙製で、受け取って覗き込めば中に細かな氷が大量に詰められていた。太めのストローが突き刺さり、揺らせばよく冷えた飲み物が波打った。
 指先に貼り付いた水滴が、火照った身体から熱を奪って行く。
 心地よい冷たさにほうっと息を吐いて、立香はバケツに浸した足をばしゃばしゃさせた。
 跳ねた水が辺りに飛び散り、アスクレピオスの足にも掛かった。しかし医神とも呼称されるサーヴァントは気にする様子もなく、被っていたフードを外して膝を折った。
「具合はどうだ」
 邪魔になるホースをバケツから引き抜き、水中を覗き込みながら呟く。
 それが自分に向けての発言と気付くのに、立香は数秒を要した。
「えー……あー……どうだろ……」
 頭の中がふわふわして、思考が定まらないのは、きっとこの暑さの所為だ。
 前方には真っ白に日焼けした砂浜が広がり、遠く波の音がこだましていた。海水浴を楽しむ英霊らのはしゃぎ声があちこちから響き、商魂たくましいサーヴァントが呼び込みをする声がどこからか聞こえて来た。
 答えながら飲み物をひとくち飲めば、喉の奥がすーっとした。
「あ、おいしい」
 当て所なく彷徨っていた意識がふっと一箇所に定まった気がして、立香は無意識に呟き、喉越し爽やかなスポーツドリンク飲み干した。
 ずずず、と喧しく音を立てて、氷ばかりになったのに、しばらく冷えた空気だけを吸い続ける。
「もうひとつ、買って来るべきだったか」
「えー、ああ……ごめん。お代、払うよ」
「必要ない。どうせ、ほかに使い道はないからな。よく冷やしておけ」
 それを見ていたアスクレピオスがぼそっと言って、ホースをバケツに戻し、立ち上がった。
 横向いた視線の先になにがあるか、座っている立香からは見えない。けれどきっと、料理上手なサーヴァントが屋台でも開いているのだろう。
 空腹は感じないが、派手なシャツの上から胸元を撫でて、彼は上からの圧力に首を竦めた。
「ぶは」
 軽く頭を叩かれたが、この衝撃は手によるものではない。
 急激に暗さを増した視界で瞳だけを浮かせれば、視界に飛び込んできたのは木漏れ日だった。
 編み目の粗い麦わら帽子は、マシュの持ち物だったはずだ。
「被っていろ」
「はあい」
 溶けかけの氷だけになった紙コップを託し、立香は花飾りがついた帽子のつばを取った。風で飛ばされないよう、髪型が崩れるのも厭わず目深に被り直せば、満足したのか、長いもみあげをポニーテールのように束ねた男は、足早にビーチパラソルの下から出ていった。
 夏のバカンスを楽しみにしていたけれど、それ故にか、油断した。
 水着ではしゃぎ回るサーヴァントたちに混じってビーチバレーに興じ、勝ち目がないと知りつつビーチ・フラッグスに全力を出していたら、足の裏に火傷をした。
 なんだか可笑しいと思った時には、後の祭り。
 素足で熱い砂浜を走り回った結果が、バケツに浸された両足だ。
 自力で立っていられなくて、臨時で作られたこの救護所に運び込まれた。すぐさま軽度の火傷と診断されて、容赦なく水を張ったバケツに足を突っ込まれた。
 サーヴァントたちが平然としているので、深く気に留めていなかった。そもそも人間と、英霊の頑強さを同一に考えたのが、間違いの始まりだ。
 心配してついてきたマシュも、傷の度合いがそこまで酷くないと知って、ホッとしていた。
 今はどこにいるかと探せば、少し離れた場所で、ジャック・ザ・リッパーやアビゲイルたちと砂遊びに興じていた。
 炎天下で帽子もなく、新調したての水着姿なのに大丈夫かと心配になったが、彼女もまた、一介の人間とは異なる境遇にあるのを思い出した。
「かっこ悪いなあ、オレ」
「なにを、今さら」
「むうう」
 この暑さに負けたのは、自分だけ。
 マスターとしての不甲斐なさを嘆いていたら、独り言だったのに、聞かれていた。
 今度は大きめのボトル入り飲料を差し出され、立香は頬を膨らませつつ、受け取った。アスクレピオスは再度膝を折って屈み、バケツの水を掻き混ぜ、問答無用で冷やされていた足首を取った。
「うわ」
 断りのひと言くらい欲しかったが、いくら注意したところで、どうせ無駄だろう。
 ベタベタ触られるのは得意でないものの、大人しく我慢して、彼はピンク色のボトルの首を捻り、硬い蓋を外した。
 直前まで氷水で冷やされていたのか、水浸しのボトルから大量の水滴が滴り落ちる。
 サーフパンツの裾を湿らせて、ひとくち飲めば、パイナップルにも似た味が口の中に広がった。
 パッションピンクの見た目からは、あまり想像がつかない味だ。爽やかで、いかにも南国という印象を抱かせる飲み物は、熱を蓄えていた身体にすーっと馴染んだ。
「水ぶくれになっているな」
「なんか、感覚、あんまりないかも」
 十分以上流水に浸していたので、足首から先の神経が麻痺したのか、痛みはあまり感じない。
 飲みながら答えて、立香はアスクレピオスの手の上で、足指をぴこぴこ動かした。
「じっとしていろ」
 それを咎めて、医神が眉を顰める。
 物理的に制すべく、残る手で上から押さえ込まれて、立香は若干ムキになった男に肩を竦めた。
「うぷぷ。はぁい」
 折角のバカンスに、水を差されたのだ。これくらいの楽しみは、許されたい。
 口をへの字に曲げたアスクレピオスに睨まれたが、受け流して、半分ほどに減ったペットボトルに蓋をした。色鮮やかなドリンクをちゃぷちゃぷ言わせ、頬から首筋にかかる一帯に押し当てた。
 ひんやりとした感触が心地よく、うっとりと目を細めて、熱い息を吐く。
「あー……気持ちいい」
「酸化亜鉛も、アラントインもない、か。これでは、ここで手当ても出来ないな」
「移動する?」
「そうだな。お前も、その方が良いだろう。熱中症の初期段階だ」
 率直な感想を述べたら、薬箱を漁っていたアスクレピオスが真顔に戻り、タオルを取った。綺麗に折り畳まれていたものを広げ、再び四つに畳んで、立香の額に押し当てた。
 柔らかな布が視界を塞ぎ、そのまま下へ滑り落ちていった。
 意識していなかったが、汗が大量に流れていた。首筋や、ペットボトルを握る手、挙げ句前開きのシャツの内側まで拭われて、更に奥まで行きそうな予感がした立香は、慌てて彼の手首を掴んだ。
「自分でやるから」
 肩や鎖骨までなら許せるけれど、腋や大胸筋の一帯にまで及ぶのは、遠慮したかった。
 咄嗟に声高に叫び、力尽くでタオルを奪い取る。いくらボタンを外し、胸元を全開にしているからといって、軽率に人前で触られるのはお断りだった。
 焦って裏返った声は、思いの外大きく響いた。
 何事かと遠くで様子を窺うマシュらに目配せして、首を横に振り、立香は勝手に赤くなった顔でアスクレピオスを睨んだ。
「ふっ」
 途端に笑われて、余計に恥ずかしい。
 過剰反応を馬鹿にされて、立香は益々顔を赤くした。
 タオルを握り潰して押し黙れば、その間にアスクレピオスはホースの水を止め、新しいタオルで立香の足を丁寧に拭った。先ほど中身を確かめていた救急箱から消毒液を出し、真っ白いガーゼを湿らせた。
 それで水ぶくれの周辺をなぞられて、途端に激痛が走った。
「いた、た。たたっ、た」
「暴れるんじゃない」
 反射的に足を奪い返そうとしたけれど、医神の方が上手だった。踝をぎゅっと掴まれ、引っ張られて、立香は仰け反った姿勢を維持出来ず、ビニールシートの上にばったり倒れ込んだ。
 麦わら帽子や、温くなり始めていたボトルを放り出し、痛みに耐えつつ、それでも涙目で意地悪なアスクレピオスをねめつける。
「…………」
 片足を奪われた状態で転がった立香を見下ろす彼は、しばらく無言だった。
 どこを見ているのか、視線は絡まない。金混じりの翠玉の行方を追えば、珍しく、火傷した足の裏ではない場所に、注意が向いていた。
 他者に支えられ、不自然に浮いた立香の右脚。
 太腿までしかないサーフパンツの裾は広々として、ゆとりがあり、お蔭で風通しが良かった。
「アスクレピオス?」
「どうしてこんなになるまで、放っておいたんだ」
「いたた、いたい。痛いってば」
 怪訝に名を呼べば、ハッとなった彼が誤魔化しに捲し立てた。乱暴に消毒を再開されて、圧迫された水ぶくれが破裂寸前だった。
 みっともなく悲鳴を上げて、握り締めていたタオルを放り投げて、ようやく解放された。
 頭から布を被った男は嫌そうにそれを払い除け、深々と溜め息を吐いた。
「ホテルに戻るぞ」
「ちょっと、待って。オレ、立てないんだけど」
 火傷を負ったのは、右足だけではない。左足の裏側にも、もれなく大きな水ぶくれが出来上がっていた。
 消毒されるだけで、この痛みだ。立ち上がって体重を預けたら、いったいどうなるか。
 想像するだけで寒気がすると訴えた彼に、医学の始祖たるギリシャの英霊は顔を顰めた。
 露骨に嫌そうにされたが、この男が救いを求める患者を放り出すはずがない。
 打算的な要求と共に両手を伸ばした立香に、アスクレピオスはがっくり肩を落とした。
 幸い、ホテルはこのビーチからすぐ目と鼻の先にあった。正面ロビーからでなく、海辺に面したレストラン側からなら、大通りに出なくても出入りが可能だった。
 だから車椅子や、担架といった大袈裟な移動手段に頼らなくても済む。
 へら、と笑って甘えてみせたマスターに、強請られたサーヴァントは目を瞑って首を横に振った。
「暴れるんじゃないぞ」
 渋々要求を受け入れて、彼は腕を天に向かって伸ばして待つ立香に、膝で躙り寄った。
 互いの呼吸が聞こえるところまで近付いて、目と目を合わせて、互いの睫毛の長さを確かめた。先に顔を伏した立香の背に両腕を差し伸べて、キャスターとしては意外に筋肉質な男が、タイミングを計って熱っぽい体躯を引き寄せた。
 横たわる体躯を持ち上げて、左腕は腰よりも低い位置まで滑らせた。脇腹を布越しに掴まれ、ぐっと力を込められて、立香も協力すべく、彼の首に手を回そうとした。
 ところが。
「うえええええっ」
 てっきり横向きに抱き上げられると思っていたのに、予想に反し、立香の体躯はずるっと前方に大きく傾いた。
 白い首に回すはずだった手が空を泳ぎ、咄嗟にアスクレピオスのパーカーを掴んだものの、握り締める前に指が外れた。反対側の手は立ち上がった彼の背中に流れ、指先は地面に向かって真っ直ぐ伸びた。
 担がれた――さながら米俵の如く、肩に。
 何度か膝が砕けそうになったものの、アスクレピオスはしっかり地面に立ち上がった。重さで傾きそうになる体躯を、バランスよく保って、眼を白黒させる立香の尻を、肩の高さでぽんぽん、と叩いた。
「なんで。なんでえ。エッチ!」
「馬鹿を言うな。時と場所くらい、ちゃんと考えている」
「やーだー! なんでー!」
 運んで欲しいと頼みはしたが、こういう運ばれ方は、期待していなかった。
 悲鳴を上げて喚く立香に、周囲もざわざわして、落ち着かない。アスクレピオスは集まる視線に舌打ちして、小刻みに暴れるマスターの身体をしっかり抱え直した。
 落とさないよう束縛して、二本の太腿を左腕と胸で挟んだ。その上で、彼にだけ聞こえるよう、音量を絞った。
「触って欲しいなら、もっとちゃんとした場で、ちゃんと触ってやる。言い出したのはお前だろう」
 足元を気にしつつ、転ばないよう注意しながら歩き出す。
 鼻をグズグズさせた立香はむすっと頬を膨らませ、不本意な運ばれ方への抗議も兼ねて、目の前を泳ぐ銀髪を引っ張った。
「そういう意味で言ったんじゃないし」
「そうか。なら、手当てするだけで良いな。熱中症の傾向もある。ひとりでゆっくり寝ていろ」
 いたずらを咎めず、前を見据えたままアスクレピオスが告げる。
「…………それは、やだ」
 視線が絡まないのを寂しく感じながら、立香は精一杯の感情を込めて、彼の髪を握り締めた。

重ねつる袖の名残もとまらじな 今日立ちかふる蝉の羽衣
風葉和歌集134 

消えぬべき これは思ひの 煙とも

 さざ波が押し寄せては、引いていく。白い細かな泡が一気に打ち寄せては、見る間に消え失せ、後に残るのは水に濡れた砂の粒子だけ。
 波打ち際に、大きな流木が横たわっていた。進路を塞ぐそれは、普段であれば飛び越すのは容易だった。
「おっと」
 しかし今は、簡単ではない。右足を高く持ち上げようとしたら、大腿部周辺に衝撃が走った。
 ズキッとくる痛みに顔が引きつり、転びそうになった。無理矢理跨いで、左足も引き摺るように動かす。些細な動きひとつにも気を遣って、その度に神経が磨り減った。
 ギプスを嵌めた右腕を揺らし、バランスを取りながら腰を捻って振り返る。
 少し失敗したけれど、なんとか無事に越えられた。照れ臭さに頬を掻いて苦笑すれば、流木の向こう側に佇む男が呆れた顔で肩を竦めた。
 口をへの字に曲げて、小さく溜め息を吐いている。額で交差する前髪を軽く揺らして、キャスターことアスクレピオスは目を眇めた。
 眼差しは鋭く、不愉快だと言わんばかりだ。
 こんな状態なのに出歩いている立香に、内心怒っているのだろう。それでも口に出さず、黙ってついてきてくれたのには、感謝しかなかった。
 シミュレーター内に再現された砂浜を、再びゆっくり歩く。足元を中止しながら恐る恐る進んでいたら、つかず離れずのところにいたアスクレピオスの声が響いた。
「マスター」
「ごめん。もうちょっと」
 呼びかけに、咄嗟に返事をしていた。ひと呼吸置いてから首を横に振って、反射的に紡いだ言葉の後を追わせた。
 まだ帰りたくなかった。
 折角ダ・ヴィンチちゃんに頼んで精巧に再現してもらった空間だ。久しぶりに誰の邪魔も受けない環境だから、簡単には手放し難かった。
 波の音が絶えず響き、どこまでも続く砂浜は終わりが見えない。水平線の先に浮かぶ綿雲は穏やかで、どこでもないのに不思議と懐かしい光景が、心に迫った。
 郷愁に揺さぶられた感情は、声に反映された。感傷に浸る立香を案じてか、アスクレピオスは黙ってしまった。
 ただ内心は、医者の言うことを聞かない患者だと、苦々しく思っているに違いない。その上で、マスターとサーヴァントという関係性から、迂闊に逆らえないとでも思っているのだろう。
 こんなことで令呪を使ったりしないのに。
「ふふっ」
 考えが大袈裟だと、つい噴き出した。
 言われなくても、もう少ししたら戻るつもりだ。潮風は身体に優しくなく、包帯の上からでも傷に沁みた。
「なんだ、マスター。なにか面白いものでも見付けたか」
「ううん。なんでもないよ、アスクレピオス」
 先ほどの仕返しのつもりなのか、嫌みたらしい科白が飛んで来た。それに応じて、立香は幾分軽くなった気持ちを抱えながら、振り返った。
 控えめに微笑んで、本当は人間想いの医神に目尻を下げる。
 アスクレピオスは一瞬面食らった顔をして、すぐに表情を取り消した。再びむすっと、いつも通りの仏頂面を作って、不機嫌そうに立香を睨み付けた。
 医者の顔に戻ってしまった。けれどそれも致し方がないことと、立香は立っているだけでもやっとの身体を確認した。
 結果として勝利を得たけれど、それは薄氷を踏むようなものだった。厳しい戦いに挑まざるを得ず、マスターも、サーヴァントも無事では済まなかった。
 首の皮一枚繋がって、生き延びた。頭部からの出血は大量で、ざっくり切れた傷を何針縫ったかは、怖くて聞いていない。利き腕にはヒビが入り、右足も筋が伸びたとかで、思うように動かせなかった。
 本来なら医務室で、絶対安静にしているべき重症度だ。それでも無謀でしかない真似を実行に移したのは、誰にも干渉されない場所に行きたかったからだ。
 ただ矢張り、ひとりきりになるのは許してもらえなかった。
 同伴者の指名が絶対条件と言われて、真っ先に名乗りを挙げたのはマシュだった。けれど彼女に頼んだら、きっと自分は甘えてしまう。自力で歩くのを諦めて、あの少女に縋ってしまう。
 だからアスクレピオスを指名した。彼ならギリギリのラインまで放置してくれるだろうし、医者として譲れない境界線を越えたなら、容赦なく連れ戻してくれるはずだから。
 信頼している。
 期待している。
 ほかのサーヴァントたちとは違う意味で、甘えている。
「マスター」
 呼ばれたけれど、聞こえなかった振りをした。波に素足を浸し、纏った白のガウンや、踝まで覆う包帯にも飛沫を飛ばせば、ひんやりとした感触が心地よかった。
 己の中に宿る熱を知覚して、命のありようを強く意識させられた。
「うひゃ、冷たい」
 反面、純粋に楽しい。
 ばしゃばしゃ波を蹴り、ガウンの裾を閃かせる。足首に纏わり付く布を払って、童心に返ってはしゃいでいたら、じわじわ距離を詰めたアスクレピオスに叱られた。
「転ぶんじゃないぞ」
 やんわりと忠告されて、それがくすぐったかった。
「分かってる。気をつける」
 首を竦めてこみ上げる笑みを堪え、声を弾ませた。
 遠い昔にも、こんな風に水遊びをした。そのはずなのに、あの時誰と一緒だったかは、もう思い出せなかった。
 寄せては引いて、押しては返す波は、日々の営みに埋没した記憶のようだ。
 ふとした拍子に甦り、いつの間にか忘れている。目の前のことに必死で、振り返っている暇などないというのに、気を抜くと囚われてしまう。
 ぱしゃん、ぱしゃんと水音を響かせながら、果てのない砂浜を歩いた。
 点々と刻まれる足跡は、小幅だ。片足を庇いながらなので、体重を多く預かる左足の方が、僅かに深く砂に沈んだ。
 黒く濡れた砂に歩みを残して、何気なく振り返れば、先ほどより離れた所にアスクレピオスがいた。
 不思議に思ったのは、彼の後方に残されている足跡が一人分だったことだ。
 彼の歩き方も、どことなく不自然で、ぎこちない。その理由を探って視線を往復させて、立香は嗚呼、と頬を緩めた。
「どうした?」
 顔を上げたアスクレピオスと、目が合った。またしても噴き出しそうになったのを堪えて、立香は沸き起こった愛おしさに顔を綻ばせた。
 白い歯を覗かせて笑いかけ、答える代わりに姿勢を戻した。ギプスの分だけ重い右腕を前後に振って、調子を良くして、いくらか進んで後ろを窺った。
「なんだ、マスター。さっきから」
 立ち止まれば、彼も歩みを止めた。胡乱げな表情で聞かれたが、またも答えず、立香は一定の距離を保ってついてくる医神に破顔一笑した。
 砂浜に残される足跡は、相変わらず一人分。立香の歩みをなぞるように、アスクレピオスは足を操っていた。
 それが面白いし、可笑しいし、嬉しかった。
 彼の後方と、己の足元と、アスクレピオスの足元と。
 一列に並んだ足跡をなぞるように視線を動かしていたら、眉を顰めた白衣の男がふっと、真顔になった。
 若干猫背だったのを改め、背筋を伸ばした。長い袖を風に靡かせ、真っ直ぐ射貫くようにこちらを見た。
 心の奥底を覗き見るような眼差しに、立香はぶるっと背筋を震わせた。
「そろそろ、……戻る?」
 医者としての矜恃に蓋をして、我が儘に付き合ってもらっていた。これ以上の強要は不可能と考えて、控えめに問いかけた矢先だ。
「消えてはいないぞ、マスター」
 唐突に言われて、ぽかんとなった。
 なんのことだか、さっぱり分からない。説明が一切ないひと言に絶句して、立香は目を丸くした。
「なにが?」
 訊き返したけれど、彼は答えてくれない。一人分だった足跡をふたり分に増やし、問答無用とばかりにずんずん距離を詰めて、立ち尽くす立香の前を塞いだ。
 威圧的に感じる近さでようやく足を止めて、息巻き、声を荒らげた。
「お前がどれだけ傷を負って倒れようとも、お前が歩みを諦めない限りは、僕がお前を立ち上がらせてやる。何度でもな」
 早口で吼えられて、理解が追い付かない。急に暗くなった視界に瞬きを繰り返し、立香は耳朶に貼り付いた宣言に、遅れて顔を赤くした。
 一旦停止した思考を慌ててフル稼働させて、微妙に興奮気味の男を扇ぎ、頬をヒクリと痙攣させた。
「ゾンビにされちゃう?」
「馬鹿者。死なせはしない、と言っているんだ」
 胸の奥がじんわり熱を帯び、鼓動が爆音を奏でるのに、表面上は冷静ぶって皮肉を口にしていた。
 返答が気に入らなかったのだろう。アスクレピオスは間髪入れずに怒鳴って、袖の奥に潜む手で立香の鼻を思い切り抓った。
「あいひゃ」
 摘ままれ、捩られた。痛みで自然と涙が溢れる。立っているのも辛いというのに、顔の中心を持って行かれそうになって、反射的に爪先立ちになっていた。
 潤む瞳を瞼で隠し、息を止めて、暴力的な医者に抗議すべく身体を捻った。
 普段なら、なんら造作ない行動だった。
 しかし体力は限界に近く、一度ふらついた身体を立て直すのは難しい。
「うあ」
 自力で立っていられなくなって、そのままアスクレピオスの胸元に倒れ込んだ。ぼすっと挟まれた空気が左右に散って、鼻先を掠めたのは湿った薬草の匂いだった。
 時間があれば蘇生薬の研究に打ち込む彼の背中を眺めるのが、ここ最近の、立香の日課だった。
「まったく。大丈夫か?」
 その彼に、抱きしめられた。これ以上倒れていかないよう、背中に腕を回され、絶妙な力加減でサポートされた。
 背中をそっと撫でられた。労るような、優しい手つきだった。
「……う、うん、平気。でもちょっと、なんだろ。悔しい」
 距離も近かったし、それほど勢いが出ていたわけではない。ただ体重の半分近くをぶつけたのに、この男はびくともしなかった。
 キャスターで、腕力だってそれほど強いわけではないのに。服の上からでも分かる、案外鍛えられた体躯は、ギリシャ神話に繋がる英霊たちの共通項だ。
「こんな状態で出歩くから、当然だろう」
 負けた気分になって唸ったら、勘違いされた。不思議そうに言われて、立香は俯いたまま首を振った。
「いや、そういう意味じゃなくて。……ううん、いいや。そういう意味にしておいて」
「言っていることが分からないぞ、マスター」
 説明しようとしたけれど、途中で思い止まった。どうせ言ったところで正確には伝わらないだろうし、なにより立香の男としてのプライドが許さなかった。
 もやもやする感情を深呼吸で吐き出して、せめてもの抵抗としてアスクレピオスの胸に額を擦りつけた。ぐりぐり押しつけながら左手で長い袖を手繰り寄せたけれど、支えにするには少し心許なかった。
 ギプスの所為で曲がらない右腕はだらりと垂らし、左手だけで、彼の上腕を握り締める。
「アスクレピオスって、ずるい」
 彼の存在も、強さも、体温も、なにもかもが立香を安心させた。
 彼を知るたびに、自分は確実に弱くなる。ただの医者としてではなく、それ以外のなにかに、彼を定義してしまいたくなる。
 いつかは別れる日が来るのに――あの人のように。
「さっきから、何が言いたい」
「分かんないなら、いいよ。うん。お願いだから、分かんないままでいて」
 心がきゅうっと締めつけられて、痛みからではない涙で瞳が潤んだ。決して外に零したくなくて、歯を食い縛って堪えていたら、頭上から溜め息が降って来た。
 間を置かず、黒髪を撫で、梳かれた。
 手つきはぎこちなく、慣れていないのが丸分かりだ。
 だのにどうしようもなく心地よくて、立香はいよいよ顔を赤くして、アスクレピオスにしがみついた。
 

2020/08/09 脱稿

消えぬべきこれは思ひの煙とも かひなき空にほのめかせとや
風葉和歌集 811

知らじかし ほの見し月の かけてだに

 さざ波が押し寄せては、引いていく。白い細かな泡が一気に打ち寄せては、見る間に消え失せ、後に残るのは水に濡れた砂の粒子だけ。
 流れ着いた流木が行く手を阻むが、跨いで乗り越えるのは容易い。
「おっと」
 それなのに少しふらつくのを見せられて、アスクレピオスは内心、肝を冷やした。
 もっとも転びそうになった張本人はけろりとしており、振り向いて苦笑した。肩を竦め、照れ臭そうに頬を掻き、進行方向に向き直った。
 両腕を左右に広げてバランスを取り、一歩ずつ、慎重に歩みを再開させる。
 その三歩ほど後ろを行きながら、アスクレピオスは先ほど見せられた表情を反芻した。
「マスター」
「ごめん。もうちょっと」
 苦々しいものを覚えて声を上げれば、呼びかけに呼応した立香が前を見たまま首を振った。
 名前を呼んだだけなのに、こちらの心を読み取ったかのような科白だ。先回りして懇願されて、アスクレピオスは小さくため息を吐いた。
 そろそろ戻るべきと提言したかったのだけれど、言えなくなってしまった。
 どこか泣きそうな声で請われては、ダメだと言い出し辛い。医者という立場ならば、縄でぐるぐる巻きにしてでもベッドに連れ戻すべきだろうが、サーヴァントという身の上で、それは容易くなかった。
 益々渋い表情を作っていたら、気取ったらしい。緩やかな足取りの立香が、不意に「ぷっ」と噴き出した。
「なんだ、マスター。なにか面白いものでも見付けたか」
「ううん。なんでもないよ、アスクレピオス」
 今度はこちらが先手を取って、声を高くして話しかける。
 立香は口元を軽く押さえた状態で言って、先ほどよりずっと穏やかな顔付きで振り返った。
 潮風が吹き、伸び気味の黒髪を擽った。けれど柔らかく乱されるのは一部分だけで、側頭部から後頭部の一帯は微動だにしなかった。
 それもそうだろう。藤丸立香の頭部には現在、真っ白い包帯が巻かれていた。
 負傷箇所はそこだけではない。右腕の肘から先にはギプスが巻かれ、手の甲まですっぽり覆われていた。露出するのは指先だけで、その動きも部分的に制限されていた。
 裾の長い、ワンピース状のガウンで見え難いものの、右脹ら脛周辺にも、広範囲に亘って包帯が巻かれていた。骨に異常はなかったが、筋が若干伸びているので、歩き方は非常にぎこちなかった。
 松葉杖か、車椅子を使った方が、移動はずっと楽だ。
 しかし立香はそれを嫌がり、自分の足で歩き回ろうとした。
 挙げ句にダ・ヴィンチに駄々を捏ね、シミュレーションルーム内にこんな景色を再現させた。
 どこまでも続く砂浜、繰り返される波音。時折弱い風が吹き、磯の香りが鼻腔を擽った。
 いくらシミュレーター内であり、彼のバイタルが常時監視されているとはいえ、ひとりきりで散歩をさせるわけにはいかない。
 同伴者をつけるのが条件だと主張したダ・ヴィンチに、立香はならば、とアスクレピオスを指定した。
 てっきりデミ・サーヴァントを選ぶかと思っていただけに、指差された時は面食らった。そして今も、彼が自分を選んだ理由が分からないでいる。
「マスター」
 傷だらけの、ボロボロの身体を引き摺ってまで、どこかで見たかもしれない景色の中に立ちたがった意味。
「うひゃ、冷たい」
 呼び声は聞こえているだろうに、無視して、立香は素足のまま打ち寄せる波に足を浸した。
 子供のようにはしゃいで、歓声を上げるけれど、ばちゃばちゃと水を蹴り上げるような真似はしない。否、今の彼ではそれすら難しかった。
 海水は塩分を含んでおり、あまり衛生的とは言えないのだが、さすがにそこまで再現されてはいないだろう。苦言を呈したい気持ちをぐっと堪えて、アスクレピオスはゆるゆる首を振った。
「転ぶんじゃないぞ」
「分かってる。気をつける」
 真っ白いガウンの裾をちょっとだけたくし上げ、踝まで水に浸かった立香が目を細めた。甘すぎる忠告に嬉しそうに頷いて、大量の泡を踵で踏み潰した。
 遠くを見れば青空に白い綿雲が泳ぎ、水平線は僅かに湾曲していた。右遙か前方に小さな島があり、姿はないものの、カモメらしき鳥の声が響いた。
 頭上を仰げば太陽が燦々と輝き、足元に目を転じれば黒い影が短く伸びている。
 照りつける陽射しを吸った砂はほんのり熱を持っていたが、マスターの体調に配慮してか、飛び跳ねるほどの熱さではなかった。
 サンダルの底で砂を掘っていたら、水音が遠ざかった。
「マスター?」
 直前まで彼が居た場所に、今は誰もいない。
 慌てて視線をずらしていけば、立香はどこか危なっかしい足取りのまま、一歩ずつ前に進んでいた。
 濡れて黒ずんだ砂浜に、彼の足跡がくっきり残されていた。
 それをなぞるように、アスクレピオスは歩き出した。
 素足な分、立香の足形の方が少し小さい。傷を負った左足を庇いながらなので、歩幅は一定せず、踏み込みが強い右足の方が深く沈んでいた。
 こんな足跡ひとつからでも、彼の調子がつぶさに読み解けた。
 無理はしているが、無茶はしていない。ドクターストップをかけるタイミングを探りながら、アスクレピオスは顔を上げた。
「どうした?」
 目が合った。
 数歩先を行く立香が足を止めていたので、距離を保った状態で立ち止まる。問いかければ、彼は答える代わりにしどけなく微笑んだ。
 締まりのない表情を見せて、また歩き出した。追いかけて、一定間隔を維持したまま、アスクレピオスが後ろに続いた。
 補助はしない。自分で歩けると言ったのだから、そうさせている。ただ万が一に備えて、瞬時に駆けつけられるようには心がけていた。
 恐らくそれが、立香がアスクレピオスを指名した一番の理由だろう。
 過保護になりすぎず、かといって突き放すわけでもなく。
 医者としての立場を重んじて、必要な時にだけ、必要な手助けを。
「なんだ、マスター。さっきから」
 ぼんやり考えていたら、また立香が止まった。振り向き、そこにアスクレピオスがいるのを確かめて、訊かれても答えない。
 磯風が吹く中に佇んで、ふいっと視線を逸らすけれど、顔はこちらに向けたまま。
 どこを見ているのか悩んで、医神を崇められる男は腰を捻り、後方を見た。
 波打ち際に点々と続く足跡は、時間が経つにつれて波に洗われ、薄くなり、消えていた。
 跡形も残らない。平らに均され、少し前までそこに在ったものは掻き消された。
 切除された未来、可能性。ただひとつの人類史を選び取る為に、藤丸立香という人間の選択ひとつで滅ぼさなければならなかった、数多の時間軸。
 彼の脳裏に過ぎっているだろう光景を想像して、アスクレピオスは背筋を伸ばした。視線を戻し、空色の瞳を真っ直ぐ見詰め返せば、立香は困った風に首を竦めた。
「そろそろ、戻る?」
 自分から切り出して、作り物の笑顔で安心させようとする。
 風で冷えたと言わんばかりに右腕をさする彼に目を伏して、アスクレピオスは立香が刻みつけた足跡の横に、自らの足を踏み出した。
 ふたりでひとつ分だった足跡が、ふたり分になった。
「消えてはいないぞ、マスター」
「なにが?」
 消滅した世界では、その全ての足跡が消え失せる。残らない。修正された過去でも、それは同じ。
 けれど彼が刻みつけた道筋は、確かに残っている。戦いを共にした仲間の中に、立香の中に、永遠に残り続ける。
 たとえ座に戻る日が来ようとも、長い旅路の記憶を失わせはしない。
 そもそもまだ、旅は途中だ。終わりは当分先の話。ここで立ち止まっている余裕はない。
「お前がどれだけ傷を負って倒れようとも、お前が歩みを諦めない限りは、僕がお前を立ち上がらせてやる。何度でもな」
「……ゾンビにされちゃう?」
「馬鹿者。死なせはしない、と言っているんだ」
「あいひゃ」
 真面目に言っているのに茶化されて、仕返しに低い鼻を抓んで引っ張った。本当は頭を叩くつもりだったけれど、怪我のこともあり控えた結果、振り上げた手のやり場がそこしかなかったのだ。
 鼻を抓られて、立香は小さく悲鳴を上げた。ダメージを軽減すべく、爪先立ちになって前のめりになり、アスクレピオスの方へ身体を傾けた。
「うあ」
「まったく」
 普段なら、なんら問題ない動作だった。しかし片足が不自由で、右手も思うように動かせない状態だ。ふらついた立香は姿勢を戻せず、そのまま医者の身体に体当たりした。
 倒れ込まれて、アスクレピオスは難なく受け止めた。少しも揺らぐことなく、素早く左腕を腰に回して引き寄せ、これ以上立香が崩れないように支えた。
 鼻を苛めていた右手も、左手に追随し、立香の背中をそっとなぞった。
「大丈夫か」
「うん、平気。でもちょっと、なんだろ。悔しい」
「こんな状態で出歩くから、当然だろう」
「いや、そういう意味じゃなくて。……ううん、いいや。そういう意味にしておいて」
「言っていることが分からないぞ、マスター」
 真下に来た黒髪に向かって問いかければ、立香は俯いたまま頷いた。左手で恐る恐るアスクレピオスの袖を手繰り、布だけという不安定感からか、間を置いて上腕を握り締めて来た。
 ギプスで固定された右腕はだらりと垂らして、独り言なのか呟き、顔を合わせようとしない。
「アスクレピオスって、ずるい」
「さっきから、何が言いたい」
「分かんないなら、いいよ。うん。お願いだから、分かんないままでいて」
 ぼそぼそと小声で非難されたが、そう言われる理由が皆目思いつかない。説明を求めてもはぐらかされて、挙げ句の果てには頼み込まれた。
 人間の身体には誰よりも詳しいと自負しているが、藤丸立香という人間の脳内だけは、未だ掴み倦ねている。
 理解不能だと溜め息を吐き、何気なく黒髪を梳いてやる。
 離れようとしないマスターの耳朶は、火が点いたかのように真っ赤だった。

2020/08/02 脱稿
知らじかしほの見し月のかけてだに おぼろけならず恋ふる心を
風葉和歌集 812

ありし世の 今日のみあれを 思ひ出でて

 扉が開く音が聞こえた。
 直後に人らしき呻き声と、ガタガタ喧しい音が続いて、アスクレピオスは眉を顰めた。
 手にしていたペンの尻で顎を軽く小突き、椅子を引いて振り返る。視界に飛び込んできたのは、見知った男の姿だった。
 短く刈り揃えた髪に、もみあげと連結した無精髭。肩幅が広く、重武装にも耐えうる鍛えられた体躯に、やや不釣り合いな眼鏡を掛けている。
「よう、悪いな」
 目が合ったと気付き、アーチャーことウィリアム・テルが軽く右手を挙げた。微かに煙草の臭いが漂ったが、今の彼はなにも咥えていなかった。
 身体に染みついて、剥がれないだけだ。風呂に入り、洗濯し、歯を磨いても、根底に根付いてしまったものが消えることはない。
 硝煙さえも誤魔化してしまえる臭いに眉を顰め、アスクレピオスは椅子の上で身動いだ。立ち上がるか、座ったままでいるか躊躇していたら、前のめり気味だったウィリアム・テルがすくっと背筋を伸ばした。
 同時に両腕を背後に回し、担いでいたものを抱え直した。ついでに少し右に傾けて、前方に居る医神にも見えるよう、角度をずらした。
「うぅ……ひっぐ。ぐず」
 それに呼応するかのように、愚図る声が聞こえた。アーチャーが入って来た時と同じ声色もまた、アスクレピオスには馴染み深いものだった。
 いや、こんな呻き方に遭遇するのは、初めてかもしれないが。
「どうしたんだ、それは」
「あー……。すまん。任せて良いか」
 分厚い背中に負ぶさっていたのは、凡人類史最後のマスターこと、藤丸立香だ。
 魔術師としての素養はまったく持ち合わせていないけれど、数多のサーヴァントと縁を結び、人理を修復してみせた存在。明るく、元気で、素直で、時々悪ふざけも忘れない、十代後半の少年だった。
 厳しく、苛烈な戦いを繰り返し経験し、それでも心折れる事なく前を見据えている。しかしその内面は常に嵐に見舞われて、激しく揺れ動いているのに、誰もが気付いていた。
「や~ら~~!」
「こらこら、首を絞めるな」
 その彼が、現在進行形でウィリアム・テルにしがみついていた。細腕を太い首に巻き付けて、赤ん坊の如く駄々を捏ね、身体を前後左右に揺り動かした。
 顔は真っ赤で、鼻の頭の色が特に濃い。目尻には涙が浮かんで、頬には乾いた痕が残されていた。
「何があった」
 およそ尋常ならざる状況で、アスクレピオスは訊ねると同時に立ち上がった。膝の裏で椅子を蹴飛ばし、絞められながらもマスターをベッドへ運ぶ男を追いかけた。
 余程アーチャーの背中が気に入ったのか、降ろされるのが不満らしい。首絞めが効果無しと判断した青年は、今度は拳を作り、角刈り頭をぽかぽか殴り始めた。
 弾みで眼鏡が傾き、落ちそうになった。だが両手が塞がっているウィリアム・テルは直す事が出来ず、これ以上ずり下がらないよう、頬骨を操作して支えるのが精一杯だった。
「アシュヴァッターマンや、カルナと、ええと……まあ、とにかく。その辺の連中と飲み交わしていたんだがな」
「飲ませたのか」
「いいや、まさか。だが、匂いと雰囲気に、やられちまったらしい」
「…………」
 マスターは、未成年だ。よもや、と勘繰って睨み付ければ、髭の男は呵々と笑って首を振った。
 ひっつき虫と化した青年を引っ剥がすのに成功し、謂われなき暴力から解放されたアーチャーが肩を竦め、眼鏡を直した。拠り所を失った青年は不満げに頬を膨らませ、拗ねてベッドに横になった。
 両足は床に向けて垂らしたまま、両腕を頭上に伸ばして寝転がり、顔を伏す。
「シーツで鼻を拭くんじゃない」
 嫌な予感がして、アスクレピオスがその肩を掴んで揺さぶった。
「ははっ。じゃあな、後は宜しく」
 その隙に、それなりに重い荷物を運んで来た男が、軽快な足取りでベッドサイドを離れた。入室時よりもずっと高い位置で手を振って、任務終了とばかりに医務室を出ていった。
「おい、待て」
 呼び止めたが、勿論止まってくれるはずもなく。
 詳しい事情を聞きたかったのだが、追いかけて連れ戻すのも手間だ。厄介事を持ち込まれた医神は袖の上から後頭部を掻き、シーツに顔を埋めている青年を軽く叩いた。
「起きろ、マスター。これに向かって息を吐け」
 アーチャーの言葉は信用出来るが、万が一の為にも検査は必要だ。
 必要な機器は、スキルを使えば瞬時に作成出来る。魔力を練り、術式を組み込んで完成させた小型の装置を握り締め、アスクレピオスは無理矢理マスターの身体を起こした。
 前方から抱きかかえるようにして、力が抜けてぐらぐらしている体躯を持ち上げる。だが自発的に動こうとしない男は、支えを失うと、途端にゆっくり倒れていった。
「チィッ」
 呼気にアルコールが含まれているか調べたいのに、離れると、寝転がられてしまう。
 自分で座るよう繰り返し促すけれど、雰囲気だけで酔ってしまえる青年は、なかなかしぶとかった。
「マスター、いい加減にしろ」
「アズグデビボズがづべだい」
「そんな名前になった覚えはない」
 酒宴から遠ざけられ、匂いだってしないのに、まだ正気に返らない。
 泣きながら鼻声で文句を言われて、アスクレピオスは反射的に怒鳴った。とろん、と半分瞼が閉じているマスターの額を指で弾いて、強引に酔いを覚まそうとした。
 痛みで我に返ってくれれば良い。そう願ったのだけれど、残念ながら祈りは届かなかった。
 立香は前後に身体をぐらつかせた後、ひっく、と大きくしゃくり上げた。口を真横に引き結んで、奥歯を噛み、空色の瞳にいっぱいの涙を浮かべた。
「ひどおいいいいい~~!」
 成人前とはいえ、彼は十代後半のはずだ。それが大声で喚き、叫び、打たれた場所を両手で庇って泣きじゃくった。
 おいおい声を上げ、大粒の涙をぼろぼろ流す。身体を激しく揺さぶって、肩を上下させ、全身で哀しみを表現した。
 そこまで痛くしたつもりはない。充分手加減した。
 酔って感覚が過敏になっているのかもしれない。どちらにせよ、面倒なのに変わりはなかった。
「落ち着け、マスター。泣くんじゃない。ああ、そうだ。悪かった。僕が悪かったから、いい加減泣き止め」
 折角作ったアルコールチェッカーも、こうなっては使い道がない。
 役立たずの機械をベッドの空いているところ目掛けて放り投げて、アスクレピオスは雑に謝り、両手を広げた。
 胸元に隙間を作ってやれば、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにさせたマスターが、口をへの字に曲げて鼻を啜った。
 小さくしゃっくりして、潤んだ眼を向けて来た。
「どうした」
 促すように二度、三度と垂れた袖ごと腕を振る。それで不信感が除去出来たかどうかは不明だが、マスターは小さく頷いた。
 ぼすっ、と抱きついて来た身体は、意外に小さかった。
 否、そんなはずがない。彼の身長、体重は、しっかり把握している。脈拍、血圧、その他様々な数値も含め、どんな些細な異変でも見逃さないよう、網を張っていた。
 だから彼が小さく感じたのは、物理的な変化ではない。
 心理面、精神面で、随分と弱っているのを実感させられた。
「マスター」
「ふぇっ、うぅ……」
 白を基調としたコートを力任せに握り締め、藤丸立香は立て続けに肩で息をした。
 荒い呼吸が、聞く者の鼓膜を震わせる。溢れるものを止めようという努力を放置して、彼はひたすら涙を流し続けた。
 声にならない音を紡ぎ、喘ぐけれど、言葉として意味を成す音は決して吐こうとしない。
「そうか、分かった。好きにしろ」
 ウィリアム・テルに背負われている時も、そうだった。他者の体温に触れながらも、誰からも顔を見られずに済む状況の間だけ、彼は誰にも聞かせられない想いを涙に変えて、呻いていた。
 彼が泣いているところを見るのは、これで何度目だろう。笑っている時の方が圧倒的に多くて、恐らく片手で余るほどでしかないはずだ。
 けれど人間には、感情がある。怒りや、哀しみといった側面も、当然ながら藤丸立香の中に在って然るべきだ。
 それなのに自分達は、彼のそういう部分を、あまりにも目を向けてこなかった。
 知っていながら、気付いていながら、彼が見せようとしないから、無いものとして扱っていた。
 そもそも自分達は、普段から泣かない――涙を流す暇さえ惜しみ、目的のため、願いのために邁進し続けて来た。表立って弱音を吐かず、胸の内に押し留め、解き放つことをしなかった。
 哀しいかな、英霊とは、そういうものだ。泣くべきところで、泣かない。後ろ向きな感情を押し殺し、前ばかりを見て、自分自身さえ顧みない。
 彼のように泣けていたら、英霊として名を遺さずに済んだ者も、中にはいるだろう。
 この平凡な青年を、英雄にしてはいけない。きっかけは何であれ、こうやって思い切り泣きじゃくる場を、自分達は用意してやらなければいけない。
「お前は、僕たちのようには、なるな」
 酔いを言い訳に泣く憐れな子供の頭を撫で、静かに囁く。
 返事はない。代わりに縋り付く手の力が、ほんの少し強くなった。

2020/07/26 脱稿
ありし世の今日のみあれを思ひ出でて 神の斎垣もあはれ知るらん
風葉和歌集 617

思ふこと なすこと神の かたからめ

 自動ドアは便利だ。両手が塞がっていても、機械がこちらの存在を認識さえしてくれれば、勝手に道が開かれる。
 文明の利器の有り難みをまざまざと感じながら、立香は奥行きがある空間に目を細めた。
 廊下側と天井の高さは変わらない筈なのに、室内の方が少し明るく感じる。照明の数が違うのかとぼんやり考えて、彼は右足で敷居を跨いだ。
 数歩といかないうちに、ドアはまた自動的に閉まった。殆ど音もなく元の位置に戻った扉を振り返り、立香は静まり返った空間を見渡した。
「アスクレピオス、居る?」
 それなりの重さがある盆に並べた品々を傾けないよう注意しつつ、遠くに向かって呼びかけるが、応答はない。
 清潔なシーツに包まれたベッドはどれも空っぽで、診察台の前に並べられたモニターの多くは真っ黒だった。
 スリープモード中を示すランプが点滅し、普段は書類やら、書籍が散らばっている卓上は片付いていた。カルテを記入するのに使われるペンも所定の位置にあり、無音という環境も手伝い、若干不気味だった。
「いない?」
 直前まで誰かが居た気配はなく、慌てて隠れたという雰囲気でもない。
 自分に向かって小首を傾げ、立香は運んで来た荷物を、これ幸いとテーブルに置いた。
「冷めちゃうのに」
 目当てのサーヴァントがどこにいるか、きちんと調べないで訪ねたのは自身の落ち度だ。しかしそれを棚に上げて小鼻を膨らませ、彼は角形の皿の端をちょん、と小突いた。
 どっしりとして厚みがあるそれは、立香の出身国に所縁を持つサーヴァントが手ずから形を作り、焼いたものだ。
 釉薬にも拘ったと説明を受けたが、生憎とその辺の事情には詳しくない。ただ灰色の中にほんのり緑が混じる色合いが綺麗で、光を浴びるとキラキラ輝くのが美しかった。
 惜しむらくは、この皿を彩る料理が若干形の悪い握り飯、というところだろうか。
 ひとくちで頬張るには些か大きくて、三角形にも、俵型にもなりきれない歪み具合。中に具を潜ませるつもりが、うっかりはみ出てしまい、隠すために米を追加した所為で、三つあるどれもがどこかしら飛び出ていた。
 しかも力を込めて握ったので、いずれも密度が素晴らしい。
 これくらい簡単だと息巻いていたのに、悪銭苦闘の連続だった。料理上手のサーヴァントたちに見守られながらの試行錯誤は、楽しい時間だったが、同時に恥も多かった。
 苦心の末どうにか完成を見たおにぎりと、丸のままのゆで卵に、熱いお茶。
 本格的な食事には程遠いが、朝も、昼も、食堂に現れなかった男には、これくらいが丁度良かろう。
 大勢にからかわれながらの時間を軽く振り返り、立香は肩を竦めた。むすっと頬を膨らませ、鼻から息を吐いてしばらく待つが、医務室を占有して久しい医師を名乗るサーヴァントは現れなかった。
「どうしてくれよう」
 頑張ったのに、報われないのは辛いを通り越して、腹立たしい。
 喉の奥で呻いて爪先で床を蹴って、彼は額を覆う前髪を掻き上げた。
 先日発生が確認され、対処した極小特異点では、本来大人しいはずの小動物が凶暴性を増し、立香達に襲いかかって来た。
 詳しく調査した結果、発見されたのがそれらに寄生していた微生物。これがどうも、全ての元凶だったらしい。
 カルデアの精鋭のお蔭で素早く解析がなされ、ワクチンが大量生産されて、事なきを得た。けれどあくまでそれは、応急処置的なものでしかない。完全な無毒化と、詳細な調査はこれからの話だ。
 そしてその研究に手を挙げたのが、アスクレピオス。医学の進歩の為ならばどんなことでもしてしまえる、ギリシャ神話由来のサーヴァントだ。
 彼も珍しい病状に出会えて、大変満足そうだった。実際、あの特異点では一番活躍していた。
 事件が解決を見た後も、解析作業に没頭して、滅多に人前に現れない。
「折角心配して、……いや、心配はしてないけど。たまには顔を見せろって、いうか。違う、ちがう。そうじゃなくて」
 無人の椅子を引き、浅く腰掛けて頬杖をつく。
 愚痴を零すが、どれも恨み言にしかならなくて、最後は溜め息で締めくくった。
「あー、ああ……ん?」
 これでは頑張り損だと首を振り、もう一度床を蹴って、天井を仰いだ。両腕を頭上に掲げて背筋を伸ばせば、等間隔で並んだ埋め込み式ライトの一角に、不可思議な影が見えた。
 細長くて、するする動いている。
 見た瞬間はゴースト系のなにかかと吃驚したが、注意深く観察すれば、それはしっかりとした質量を持つ物体だった。
 天井付近に設置された棚を足がかりにして、落ちないよう、器用に貼り付いていた。最初は影しか捕捉できなかったのは、体躯の白さが保護色になっていた為だ。
「あれ」
 見覚えがある存在に瞬きを繰り返し、立香は姿勢を戻した。
 あちらも立香が勘付いたと察したらしく、まるで頷くかのように首を上下に振って、縄のような身体をうねらせた。
 長い舌をちろちろさせながら、真っ白い蛇は壁を伝い、降りてきた。柔らかく、しなやかな肉体を自由自在に操って、横一列に並ぶ棚から、沈黙中のモニターへと場所を移した。
「こんにちは」
 レイシフト先では機械の身体に変貌し、アスクレピオスの命令を受けて戦闘に参加する蛇も、ノウム・カルデア内ではこの姿だ。
 尾をモニターに絡ませて固定して、首を伸ばし、立香に顔を近付ける。赤い瞳は紅玉の如き輝きを放ち、先が割れた舌はひっきりなしに空を掻いた。
 人語は解しているようだけれど、喋れるわけではない。挨拶をしたところで、返事があるはずもない。ましてや。
「アスクレピオス、知らない?」
 この蛇が医務室に居残っているのなら、飼い主である男も、実は近くにいるかもしれない。
 がらんどうの室内を改めて見回しながら訊ねた彼は、視線を一周させた後、顔を赤くして首を竦めた。
「分かるわけない、か」
 会話が成立しない相手に質問して、どうするのか。
 自虐的に笑って照れを誤魔化した立香に対し、問いを投げられた蛇はバランス良く身体を揺らし、ふいっ、と頭部を彼方に向けた。
 なにもない空間をしばらく見詰めて、長い舌を何度も出し入れさせる。
「どうしたの」
 猫でも、時折こういう仕草をすることがある。人間には見えないものが、あの毛むくじゃらの生物には見えているのかと、疑いたくなる。
 椅子の上で身動いで、立香は怪訝にしながら示された方角に目をやった。
 薬品が入った鍵付きの棚の、横。白一色に塗られた、特に代わり映えのしない壁だ。
「んんー?」
 じっと見詰めたところで、何かが現れることもない。
 身を乗り出し気味に凝視しても、結果は変わらなかった。
「いやいや、蛇に訊いたオレが馬鹿だった」
 見開きすぎて疲れた眼球を労り、は虫類の行動を真に受けた自分に苦笑する。こめかみの辺りを指で揉んで、解して、立香はずり落ちそうになっていた椅子に座り直した。
 身長は若干こちらが高いのに、深く腰掛けると爪先しか床に届かない。
「ギリシャ人、脚長過ぎでしょ」
 第二再臨の姿の時などは、そのスタイルの良さに打ちのめされそうになる。
 胴長短足な自身の体型に臍を噛んで、立香は中身が冷めつつある湯飲みを爪で弾いた。
 こちらも、おにぎりを並べた皿を作ってくれたサーヴァントの作だ。無骨でどこか荒々しいが、同じくらい穏やかで柔らかい風合いが気に入っていた。
 微かに響いた硬い音色に耳を傾け、こちらを振り返っていた蛇越しに、例の白い壁に何気なく視線を送る。
「あ――」
 それが微妙に歪んで見えたのは、錯覚ではない。
 巻き添えを食らった薬品棚の端の変化が、最も顕著だった。
 真っ直ぐだったものが不意に真ん中で拉げ、渦を巻いて反対側に移動した。と思えば瞬時に逆回転を開始して、空中に生じた歪みがぱっと消滅した。
 後に残されたのは、黒いフードを目深に被った、不気味な出で立ちの男だった。
 直前まで、確かにそこには誰もいなかった。その筈だ。大がかりな手品が仕込まれていたのであれば、話は別だが。
「アスクレピオス」
 視認すると同時に、その名前を呟いていた。椅子を軋ませ、背筋を伸ばした立香に、蛇使い座の英霊ことアスクレピオスは 鳥を模した嘴を外し、フードを後ろに落とした。
「なんだ、マスター。お前だったのか」
 一瞥し、さほど興味がない風に応じて、彼は編んだ髪にぶら下げた金の輪を揺らした。
 それなりの重さがありそうなのに、まるで羽のように踊っていた。生え際とは異なる色合いの毛先から視線を上に流して、人類最後のマスターはぶすっと口を尖らせた。
 蛇が意図していたのは、こういうことだったのだ。
 恐らくあの壁の向こう側に、物理的干渉では辿り着けない空間がある。キャスターのスキルを活用して、独自の研究室が創られているのだろう。
 どうりで姿が見当たらないはずだ。
「捗ってる?」
「来客だと言われて出て来たが、……邪魔をしに来たのなら、帰れ」
 嫌味のつもりで訊けば、愛想のないひと言が飛んで来た。ぞんざいに扱われたのが気に入らず、爪先で何度も床を叩いて、立香はふと眉を顰めた。
 突っ慳貪な科白の前に、奇妙な独白がなかったか。
「誰に言われたって?」
 アスクレピオスが創り出した空間は、基本的に閉じている。研究に没入するために、外部との接触も極端に制限していたはずだ。
 電子機器での呼びかけには一切応じてくれない、とダ・ヴィンチも言っていたくらいなのに。
 不思議に思って目を丸くした立香に、アスクレピオスは急に嫌そうに顔を歪めた。失言だったと言わんばかりの態度を取って、ぎろりと鋭い眼光を白蛇に投げた。
 対する蛇はまるで表情を変えず、モニターに絡めていた尾を解いた。
 片付けられた机をゆっくり縦断する姿は悠然としており、堂に入っていた。一方アスクレピオスはまだ苦虫を噛み潰したような顔をして、蛇の行動を睨み付けていた。
 それでピンとくるものがあって、立香は嗚呼、と両手を叩いた。
「そっか。君が呼んでくれたんだ、ありがとう。えっと……蛇、くん?」
 謎が解けたと喜んで、近付いて来た蛇の頭に手を伸ばした。撫でようとして直前で躊躇して、空を指でなぞりながら目を細めた。
 この生き物の性別も、名前も、不明だ。アスクレピオスが蛇に向かって呼びかけているところも、未だかつて見たことがなかった。
 戦闘中でも、特別な意思表示なしでやり取りしている。ならばテレパシーの類が両者の間で成立していても、なんら不思議ではなかった。
 雌雄同体ではなかろうから、飼い主であるアスクレピオスと同性である、と一先ず判断した。疑問符を付けつつ礼を述べ、恐る恐る指を降ろした。
 白蛇は分かっているのか待ち構えて、触れられた瞬間は舌を引っ込めた。
 触り心地は、滑らかだった。少しひんやりして、鱗はそこまで硬くなかった。
 抵抗はなかった。心なしか、気持ち良さそうに受け止めてくれた。勝手にそう感じているだけかもしれないが、嫌がられなかっただけでも満足だった。
「へへ」
 普通に生活していたら、蛇に触れる機会など、そうあるものではない。
 つぶらな眼も愛らしくて、一気に親近感が湧いた。にこやかに笑いかけ、繰り返し撫でていたら、どこかから咳払いが聞こえて来た。
「それで、マスター。用件はなんだ」
 不機嫌に言って、注意を呼び戻す。
 蚊帳の外に置かれたアスクレピオスの露骨な態度に、立香は嗚呼、と頷いてから噴き出しそうになった。
 拗ね方が分かり易い。勝手に緩む口元を左手で覆い隠して、彼はすっかり温くなった茶と、一列に並んだ握り飯を指差した。
「ごはん、持って来たんだ。アスクレピオスは、必要無いって言うかもしれないけど。気分転換に、どうかな」
 こぶし大のおにぎりは、時間が経っても崩れない。仲良く並んでいる三個を一度に見て、ほんの少し疲労が滲んでいる男は肩を竦めた。
「お前が、か?」
 険しかった表情を緩め、先ほどより音量を絞って囁く。
 呆れと嘲笑、それに慈愛のような何かが紛れ込んだ口調に、立香は目尻を下げた。
 白い歯を見せて返事の変わりにして、席を譲るべく、椅子から立ち上がった。アスクレピオスはすぐには応じず、邪魔になると判断した黒いコートを脱いだ。
 長い袖は、食事には不向きだ。下から現れた腕は長く、しなやかで、ほっそりとしていながら筋肉質だった。
「せっかくだ。いただいておこう」
「へえ、珍しい」
「僕が食べなければ、他の誰かの胃袋に収まるのだろう?」
「そりゃ、勿体ないからね」
「だったらこれは、僕が食べるべきじゃないのか?」
 椅子の背もたれを引き、どっかり腰を下ろしたアスクレピオスの足裏は、踵まで床に貼り付いていた。
 これだから、英霊という存在は。
 喉まで出掛かった言葉を飲み込んで、下から問いかけられた立香は困った顔で頬を掻いた。
「オレに訊かれても」
 素直に、自分の為に用意されたものを、他者に譲りたくない、と言えば良いのに。
 遠回しが過ぎる言い分に苦笑して、内心ワクワクしながら、彼の横に回り込んだ。机の空いたスペースに寄りかかって、どれから手に取るか悩んでいる男の一挙手一投足を見守った。
 具はひとつずつ、違うものを用意した。中には馴染みのないものも含まれているから、きっと驚くに違いない。
 梅干しを引き当てたら、どんな顔をするだろう。疲労回復に持って来いだと強がるか、それとも酸っぱさで言葉もなくのたうち回るか。
 楽しみでならず、顔が勝手に緩む。アスクレピオスも立香がなにか企んでいると気取ったらしく、宙を泳ぐ指先はなかなか決断を下さなかった。
 その隙を狙われた、というわけではないだろうが。
 食堂で使用されている銀色の盆の端で蠢く存在を、ふたりはすっかり忘れていた。
 口直しで用意した、殻がついたままのゆで卵。それが突如、思いの外大きく、それこそ顎が外れるくらいの勢いで開かれた口腔に、がぶりと。
「あ」
「なっ!」
 白い握り飯に、白い卵でと、これもまた、保護色だったとは言い過ぎだろうか。
 一瞬の早業で、あの白蛇が殻ごとゆで卵を飲み込んだ。信じられない柔軟さで、顔より大きいものを丸呑みした。
 その一帯だけが異様に膨らんで、奇妙な形になっていた。大丈夫なのかと心配になり、恐怖に駆られてアスクレピオスを窺えば、彼もまた驚いたのか、目を真ん丸に見開いていた。
 そして。
「貴様、それはマスターが、僕の為に用意したものだぞ!」
「えええー。そっちー?」
 ガタッと椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、机を殴って、吼える。
 ゆで卵ひとつに心が狭い英霊の罵倒に、立香は信じられないものを見たと笑い、後から襲い来た感情に顔を赤くした。
 

2020/07/18 脱稿
思ふことなすこと神のかたからめ しばしばぐさむ心つけなん
風葉和歌集 840

明らけく 照らさむこの世 後の世も

 目覚めて最初に見たのは、真っ白い天井だった。
 特にこれといった特徴がある訳ではないけれど、目にした瞬間、自分がどこにいるか分かった。
 それくらい見慣れてしまったと、そういうことだろう。あまり褒められた事ではなくて、自虐的な笑みを浮かべていたら、どこからともなく衣擦れの音が聞こえた。
「起きたか」
「ごめん。迷惑かけた」
 それ以外にも何か、歌声らしきものもある。ただメディカルルームらしからぬリズムであり、立香は無意識に、その音色を思考から除外した。
 若干呆れ混じりの低い声に応じ、起き上がろうと被せられていた厚手の布を退かす。しかし頭の中で展開させた行動と、実際に肉体が起こしたアクションは、随分と乖離していた。
 関節が軋んで、熱を帯びて痛い。吐き出そうとした息は喉の手前で突如爆発し、周辺一帯を焼き焦がした。
「うう」
 堪らず呻き、立香はベッドに戻った。僅かに浮かせた頭を枕に沈め、汗ばんだシーツを指先で引っ掻いた。
 無数の皺を一度に握り締め、荒い息を吐き、瞳に馴染んでしまった天井を仰ぐ。
 生理的な涙で潤んだ眼差しを傍らに投げれば、腕組みをしたアスクレピオスがため息を吐いた。
「倒れた時の状況は、覚えているか」
「え、と……あんまり」
「愚患者めが」
 小首を傾げながら訊ねられ、どこかぼんやりしている記憶を漁るけれど、此処に運ばれる前はどこに居たかすら、思い出せなかった。
 ダ・ヴィンチやホームズを交えて今後の方針を話し合い、意見を求められた。上手く言葉に出来ず、悩んでいるうちに当初予定していた時間が過ぎて、新所長に愚痴を言われながら、場は一旦解散となった。
 それから気晴らしを兼ねてトレーニングルームに行って、自室に戻る前に飲み物を確保しようと食堂に向かって。
「ごめん。心配かけた」
 暗転した視界を掌で覆い、声を絞り出す。
 反省と謝罪を受け入れた医神は小さく肩を竦め、ベッドに寝転がる立香の頭を軽く撫でた。
 案外大きな掌はそのまま黒髪を押し潰し、後頭部を抱き込んだ。彼の意図を察して、立香も膝を軽く曲げ、腹に力を込めた。
 補助を受けて起き上がり、膝を抱えるようにして座った。即座に差し出されたのは、コップに入った水と、白い錠剤だった。
「謝るべきは、僕にじゃないからな」
「うん。分かってる」
 渡されたものを口に含み、疑いもせずに飲み込んだ。一度噎せかけたが我慢して、喉の痛みを冷やすべく、コップの中身を飲み干した。
 身体は思ったほど餓えていない。渇きもさほど酷く無かった。
 眠っている間、アスクレピオスがなんらかの処置を施してくれたのだろう。そう思うことにして、立香は幾分楽になった体躯を揺らした。
 きっとマシュや、カルデアのスタッフ、サーヴァントの皆々も、心配しているだろう。早く元気な姿を見せて安心させてやりたくて、ベッドから降りようとしたのだけれど。
「まだ動くんじゃない」
 頭を上下に振った途端、くらっと来た。
 そのまま前のめりに倒れそうになって、すんでの所でアスクレピオスが支えてくれた。
 彼の腕がなかったら、床に落ちていた。一瞬気が遠くなり、魂が身体から抜け出す錯覚を抱かされた。
「ごめん」
 促されてベッドに戻り、再び横になった。アスクレピオスは空になったコップを片付けるべく場を離れ、ひとりになったところで、立香は先ほどから断続的に聞こえる音楽に眉を顰めた。
 軽快なメロディが、乾いた鼓膜をすり抜けて行く。あまりにも場に似つかわしくない歌声は、確かにメディカルルームの中から響いていた。
 不快にならない程度の音量で、密やかに。しかし意識すればするほど、激しく脳みそを揺さぶられた。
 時に静かで、時に荒々しいリズムは、女性の時もあれば、男性の時もあった。ソロ、デュエット、コーラス、色々な音楽が次々に、間断なく続いた。
「アスクレピオス、これ」
「ああ。直流だか、交流だか騒がしい連中が置いていった。ここは静か過ぎて、逆に病気になりそうだと言ってな」
 視界を巡らせれば、確かにそれらしき機器が追加されていた。立香の枕元、腕を伸ばせばぎりぎり届きそうな棚の上に、それはあった。
 横に長く、ちょっとしたスポーツバッグくらいの大きさだ。方形で、左右に細かな穴が開けられた丸いプレートが取り付けられている。どうやらそれが、スピーカーの役目を果たしているようだ。
 中央部にはやはり横長のパネルが取り付けられ、操作に使うボタンの類は上部に。ただ立香には、機器のほぼ真ん中に陣取る四角いパネルがどんな意味を持つのか、分からなかった。
「変な形」
 音楽を聴くには、あまりに大きすぎる。持ち運びに使うハンドルが取り付けられているけれど、これを抱えて歩き回るのは大変そうだ。
「獅子頭の男は、自信作だと言っていたが」
「そう? あ、思ったよりも薄いんだ。これは……モニターになってるのかな」
 大人しくしているよう命じられたが、気になって、立香は半身を起こした。寝返りを打ち、ミュージックプレイヤーを引き寄せれば、見た目ほど重くなかった。
 黒と銀色で統一されて、角張ったデザインは古めかしい。ただ使われているパーツは最新鋭のものばかりで、正体不明の四角いフレームは、液晶モニターとして機能した。
 試しに指で触れてみれば、収録されている曲名や、歌手名が、ずらっと一覧で表示された。
「知らない歌手ばっかりだ」
 狭い画面を埋めるアルファベットを順に眺めるけれど、残念ながら知っている曲名はひとつも見当たらない。ただ遠い昔にテレビか、親の会話で聞いた気がする名前を発見し、押してみれば、ポップ調だった曲が突如終わり、別の曲に切り替わった。
「そっか、こうするんだ」
 操作方法の説明はなかったけれど、概ね理解した。少し楽しくなって、鼻息を荒くしてベッドに座り込んでいたら、二度目の溜め息と共に、アスクレピオスに水を差し出された。
 叱られはしなかった。呆れた顔をしているけれど、立香の調子が戻って来ていると知って、口出しは控えたらしい。
「音楽療法か。考えもしなかったが、確かに、精神を安定させる一助にはなるかもしれない」
 初めての機械に興奮しているだけなのに、彼の思考は相変わらず、医療に大きく傾いている。
 今度は立香が苦笑して、流れて来た優しい歌声に耳を傾けた。
 英語だけれど、歌詞は聴き取りやすい。男性の声にギター、ピアノの音色が重なり、そこに複数のコーラスが深みを与えていた。同性でも聞き惚れてしまう甘い声は丁寧に言葉を紡ぎ、聞く者達に優しく語りかけているようだった。
「Milky White Way……エルビス・プレスリー……オレが生まれる前の人だ」
 画面を次々タッチしていけば、歌詞や、歌手についての情報まで次々に出てきた。データに記録されていた画像はモノクロで、時代がかった衣装を身に着けた男性は、すらっとしてハンサムだった。
 歌声は神に捧げられ、曲自体はそれほど長くない。ただ翻訳された歌詞は、立香にとってピンと来ないものだった。
「そちらの神は、人間に寄り添えるだけの分別を有しているらしいな」
「ん?」
 一読しただけでは理解出来ず、調べている間はずっと同じ曲がリピートされる。
 だからだろうか、アスクレピオスは不意に言った。
 ギリシャ神話に由来する、人と神の合いの子。自由奔放なアポロン神に誕生前から振り回され、大神ゼウスの雷霆によって生涯を終えた男。
 その境涯からすれば、真摯で、一途に神への愛情を表現するこの歌は、立香とは別の意味で理解し難いはずだ。
「ゼウスも、ハデスも、死んだ人間から苦しみを訴えられたところで、困るだけだろうからな」
「あははは」
 大仰に肩を竦めながら吐き捨てられて、立香は思わず笑った。肩を小刻みに震わせて、美しいけれどどこか哀しいメロディに耳を傾けた。
 モニターに表示されていた文章を消し、俯いて、目を閉じる。
 渡されたコップを両手で抱いて、静かに、ただ呼吸だけを繰り返していたら、急に硬いベッドが撓み、軋んだ。
「うわ」
 薄いマットレットが波打って、強引なやり方で瞑想を邪魔された。振り向けばアスクレピオスが、腕を組み、右を上に脚まで組んで、簡素なベッドに腰かけていた。
「どうしたの」
「死んでから神にあれこれ言ったところで、とうに死んでいるんだ。どうにかなる筈がないだろうに」
 それは立香の問いに対する返答であり、彼の独り言だった。
 何故かは分からないが、憤っている。果たして怒りの矛先は、エジソンがチョイスした曲に対してか、それとも別の誰かに対してか。
 眉を顰めて考えても、結論は導き出せなかった。
「人間は、生きてこそだろう。でなければ、語る口は閉ざされる」
 医者として、人として、彼はずっと人類史に寄り添って来た。
 神という存在は、彼にとって受け入れがたいものかもしれない。ただ時に、人がそれを必要とするのには、理解を示している。
 その上で、彼は怒りを隠さなかった。
「……アスクレピオスらしいなあ」
 ひとり勝手に煙を噴いている彼に目を細め、立香はグラスに付着した水滴を拭った。指先を湿らせ、ガラスに貼り付く感触を楽しんだ。
 再び瞼を伏して、ミーティングでのやり取りを振り返る。
 あの時飲み込んだ言葉や、思いや、願いや、後悔は。
 死後に懺悔する為に、この胸に貯め込んでいるわけではない。
「ねえ、アスクレピオス。聞いてもらっても良いかな」
 幾分温くなった水を煽り、立香は背筋を伸ばした。新しい曲が始まったミュージックプレイヤーを傍らに置いて、ベッドの上で座り直した。
「言ってみろ。時間なら、いくらでもある」
 頼まれたアスクレピオスは不遜に言って、立ち上がった。真正面から向き合えるように椅子を用意して、神ではなく、英霊でもなく、立香と同じ『人』の顔をして、相談を持ちかけて来た患者に目尻を下げた。

明らけく照らさむこの世後の世も 光を見する露や消えなん
風葉和歌集 451

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